書評
2019年6月号掲載
不在を凝視するまなざし
――田中慎弥『ひよこ太陽』
対象書籍名:『ひよこ太陽』
対象著者:田中慎弥
対象書籍ISBN:978-4-10-304135-1
とても怖い小説だ。語り手の"私"は作家で、もともと地方の実家に住んでいたが、筆一本で生活できるようになって東京へ引っ越してきた。それから三年近くが経つが、思うように小説を書けていない。書けていない、ということについて書き続ける小説のようでもある。
何が怖いかというと、もちろん作家の書けなさそのものがとても怖いのだが(作家にとって書けないということ以上に怖いことなどきっとない。ほかのどんなエピソードも、自身の作品にしてしまえるとわかれば怖さは半減する)、それ以上に怖いのは、語り手がその"書けなさ"を見つめ続ける視線である。巨大な穴、莫大な空虚を、それそのものだけを見続けているかのようである。
もちろん、いくつかの事件はある。冒頭で掛かってくる母からの電話で、"私"は行方不明のGという人物を探してもらえないかと頼まれる。Gは母親の友人の息子で、作家志望だった。"私"の記憶は曖昧だが、どうやら以前に彼を励ますような伝言をしたことがあるらしい。"私"は気が進まないながらもなんとなくGを探しはじめる。滞りがちな原稿や、編集者とのやり取りの合間に。
作家志望の友人が出てくる作品というと、「実験」を思い出す。かつて著者はその小説のなかで、作家志望の友人にさまざまな示唆を面と向かって与えることで、意図的にその精神状態を翻弄する主人公を書いた。けれど今回の『ひよこ太陽』には、Gそのひとは登場しない。それはいつまでも完成しない書き物のように、遅延を繰り返したその先におぼろげに見えているだけだ。あるいは"私"が過去に同居していた女も。牛乳の好きなその女との会話はすべて回想のなかにある。"私"の現在は、書けない原稿を書こうとする身振り、鉛筆を走らせる動作や使い終わったA4ファクスの裏紙、または切り詰めた生活のなかで摂取する食材の描写などから成っている。それらは禁欲的ですらあって、どこか修行僧を思わせる。またパソコンもスマートフォンも使わないという語り手のもとへ、新聞やテレビを通して入ってくる政治のニュース。索漠とした現実のなかに、それでも――というよりも、きっと現実が索漠としているからこそいっそ、紛れ込んでくる幻想は鮮烈な印象を残す。
幻想、と書いた。けれども果たしてそう言い切れるのか。Gを探しに行った先で目にすることになる白っぽい野球帽。またはそれをかぶっている少年。あるいは表題にもなっている「ひよこ太陽」にあらわれる、空が傾くという気象現象――これは希死念慮に取りつかれた語り手が実家へ戻った際にあらわれるものだが、傾いた空の隙間に入り込んで太陽がひよこのように震えているから死にたくなってしまうのだ。または「革命の夢」以降にあらわれる"街"も。頭のなかと、外と、現実と非現実。それらの境目がなくなってゆく瞬間というものがある。ぎりぎりのところへ追い詰められて、ある一線を越えようとして越えられずにいる瞬間。語り手はその圏のなかへ捕らえられていく。そこで見えたものを凝視しようとする。白昼夢めいたまぼろしを、絶えがちな息のなかでそれでも書き取っていこうとする。
「日曜日」という一篇は異色だ。ほかが現在時ののっぴきならなさとそこからの離脱という構成を持っているのに対し、これは小学校時代に失踪した宇山という転入生の思い出を描く。宇山はGではないし、直接の関係もない。けれど語り手の世界との関わりかたや、その原体験を示すかのようである。私小説なのかどうか、ほんとうにあったことなのかどうか。一度は抱くそんな問いは、けれど結局はたいして重要ではないのではないか。宇山も夢のなかの街も、白い帽子の少年も、確たる強度で実在する。このテキストのなかに刻み込まれている。書けないということ、不在ということ、その苦渋を知った者だからこそ、軽やかな結末のうちに飛翔できるのだ。
(たにざき・ゆい 作家)