書評
2019年7月号掲載
天国へのロープウェイ
ローベルト・ゼーターラー『ある一生』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『ある一生』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ローベルト・ゼーターラー著/浅井晶子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590158-5
普通の男の特異な生涯、というのは矛盾だろうか。
平凡な男ではなく、普通の男。
『ある一生』の主人公エッガーは正に主人公であって、この小説はほぼ彼の言動の記録に終始する。他の人々は愛する妻のマリーも含めて脇役でしかない。すべては彼の視点から語られる。
彼はいかなる肩書きも持たない生活者である。八十年近い人生は、「子供時代と、ひとつの戦争と、一度の雪崩を生き延び」た。「家を一軒建て、家畜小屋やライトバンの荷台や、さらにはほんの数日とはいえロシアの木の檻など、無数の場所で眠った」と要約することができる。
生涯を通じてほぼ一人者だった。養父の暴行によってずっと残った障碍とか、雪崩による若妻との死別とか、八年に亘る捕虜生活とか、災難はいろいろあったけれど、それを越えて彼は生きた。「人を愛した。そして、愛が人をどこへ連れていってくれるのかを垣間見た」というのは回顧の思いとして悪いものではない。
派手な場面がなかったわけではない。
精一杯の勇気を奮ってのマリーへの求婚のメッセージ。それを山腹に FÜR DICH, MARIE(君に、マリー)と火の文字で綴るなんて、かっこいいの極みではないか。ぼくも京女に惚れたら大文字焼きを恋文に仕立てよう。
彼がもっぱらとした仕事がロープウェイ建設とその保全というのも、壮大な風景が目に浮かんで素晴らしい。つまりこの小説はアルプスの山々を借景としてうまく取り込んでいる。
アルプスではロープウェイに乗ったことがある。
フランスとスイスとイタリアの三国の国境、アルプス山脈の西端にあたるシャモニにフランス側から入った。スキー・リゾートだが宿のある村までの道には雪はなかった。ゲレンデはいくつもあるけれど、それとは別にエギーユ・デュ・ミディという高峰のほぼ頂上まで、二八〇〇メートルを一気に登るロープウェイがある。途中で一度乗り換えるのだが、それにしてもわずか二十分ほどでこれだけの標高差を登ってしまう。まるでエレベーターというのが実感だった。
高度馴化の余裕はないから当然ながら高山病に似た症状が出る。幼児ほど辛いらしく、青い顔でぐったりした子が親に抱かれているのを見た。下に降りればすぐに治るのだが、それにしてもかわいそうだった。
ああいうものをエッガーは造っていたのかと、この本を読みながら思い出した。
イタリアでロープウェイを吊る鋼索にアメリカの軍用機が衝突してたくさんの観光客が死ぬ事故があった一件も思い出す。
あるいはアイスマンのこと。
アルプス山中、オーストリアとイタリアの国境あたりで五千三百年前の男の死体が氷河の中から発見された。ミイラと言われるが氷漬けだから水分を保った状態で、身につけた物も揃ったまま。アイスマンと呼ばれることになったこの男は身長一・六五メートルで体重は五十キロ。弓矢や斧などを携えていた。争いのあげく山に逃れたものの敵に追いつかれて殺されたものと見える。肩には矢尻が残り、後頭部には打撲傷の跡があった。
なぜかぼくにはこのアイスマンが『ある一生』の最初に登場するヤギハネスと重なって見える。シャモニでは氷河に落ちて死んだ男が若い姿のまま、五十年を経て老いた許嫁の前に現れたという話も聞いた。
どれも普通の男の特異な生涯のように思われる。
エッガーには一つ、無敵の美質がある。
自分の境遇を他人と比べないのだ。一人の男として来るものをすべて受け入れ、来なかったものを思わない。もっぱら筋肉労働で生計を立て、自然のすぐ近くで暮らしてそこから叡智を紡ぎ、晩年にはそれを生かして山岳ガイドとして身を立てる。不器用で口下手で誠実なガイド。
彼が造ったロープウェイはひょっとして天国に通じていたのではないか。
(いけざわ・なつき 作家)