書評
2019年7月号掲載
女を知ってはじめて、男は男を知る
田中兆子『私のことならほっといて』
対象書籍名:『私のことならほっといて』
対象著者:田中兆子
対象書籍ISBN:978-4-10-335353-9
田中さんの文章は、好きなタイプだ。
リズム感なのか、言葉のチョイスなのか、わからないが、自分で書いた文章のように、すんなり入ってくる。だから、物語の当事者のような気持ちになる。
「六本指のトミー」の主人公・マリーは僕だった。
クラスメイトのトミーがひた隠しにする、六本目の指に触れてみたくてたまらない――そんな経験があったのかなかったのかわからないが――あったような気がしてくる。
僕はあいつの指をくわえたかった。それが悪いことなのだという自覚はなんとなくあるのだが、その衝動を抑えられない。邪な欲望が故に僕はあいつに近づいた。ずる賢く距離を縮めて、そして何でもないようなフリをしてくわえた。でも想像していたような悦びはなかった。罪悪感と後悔の方が百倍大きかった。くわえる前のドキドキを返して欲しい。だから僕は早く忘れることにした――。
作中では、トミーに拒否されたマリーは、欲望を見透かされたと感じて逆ギレした。そして、悲しいことが起こる。
マリーがトミーに抱いた欲望は、ある種性的な欲望だった。無垢な存在に対して性的な欲望を抱くことは、やっぱり悪いことなのか。欲望を抱くこと自体は悪いことではないように思う。でも実際に行動に移したら、最悪の結末となったのだ。
女の官能がテーマの短編集であるせいか、収録された七本の短編には、軽薄な優男しか出てこない。男の頼りなさ、薄情さが女の主体性を引き出し、欲望を呼び起こすのだろう。
男が意図的にバカを演じているようにも思えるのは、軽薄であることが女性のエロスをかきたてることを知っているからか。それでも、女が満足するところになんて手が届かない。そこまで一生懸命になる気もない。結果、永遠に両者の願いが重なることはない。
だからエロいのだ。興奮するのだ。
読みながら、僕はずっと物語の視点人物である女と同化していた。あの彼にも、どの彼にも衝動が沸き起こった。それは、女に同化して男に興奮することであって、心地良い違和感と胃のあたりのもやもやが同居する。
でも突然、パッと俯瞰して主人公の女性を性的な欲望の対象として見ている時もある。
忙しい。こんなに緩やかで優しい文章なのに僕の心は忙しい。
主観と客観が入れ替わる。僕は誰なんだ。誰に興奮しているんだ。いや、何に興奮しているんだ。いや興奮している訳ではない。主人公と同化しているだけなんだ。実際に身体が反応している訳でもない。気持ちが整理出来ない――。
すると、どうだろう。記憶の断片とも呼べないような、忘れ去ったはずの邪な欲望が、罪悪感が、後悔が、次々と蘇ってくる。
ほとんど話したことがない、顔にアザがあったサッカー部の同級生のことをたまに思い出す。友達の、顔も覚えていない離婚した元妻のことをたまに考える。小学生の時の隣の席の勉強が出来る女子のキラキラした腕毛をはっきりと覚えている。そして、グラスを片手に大きな夢を語っている軽薄な優男は――もしかして、いつかの僕か。
何を書いているんだ。
表題の『私のことならほっといて』のように、僕のことも、もうほっておいて欲しい。
書くことをやめてさっさと寝てしまおう。そうしたら――夢に出てくる男を愛して夢の中で死ぬことを選んだ「私のことならほっといて」の主人公のように――僕も会えるかもしれない。僕の場合なら、アラビアンナイトに出てくるような女性。その薄褐色の肌にスーッとナイフを刺しこんで、ツーっと手首から指先に流れた血が白い大理石のテーブルに落ちる直前に白ワインが入ったグラスで受けて、その音を聞こうかな。
この本には、男であれ、女であれ、必ず自分がいる。自分とは違う性の、違う人生を生きる登場人物たちと同化することで、素の自分の欲望を感じることが出来る。たとえば男である僕は、女たちの本当の願いに、その時はじめて気づくことができるのだろう。
(てづか・まき 「歌舞伎町ブックセンター」オーナー)