書評

2019年7月号掲載

「推し」は偏見を粉砕する

松田青子『じゃじゃ馬にさせといて』

柚木麻子

対象書籍名:『じゃじゃ馬にさせといて』
対象著者:松田青子
対象書籍ISBN:978-4-10-350012-4

 ジャニーズでも、キンプリ(アニメの方)でも、宝塚でも、デパコスでも、LDHでも、私が新しい世界にどきどきしながら手を伸ばす時、そこには高い確率で、女の語り手の存在がある。推しについて熱っぽく、ありったけの語彙力を駆使する彼女たちのおしゃべりという名のプレゼン(最近では二次創作なども)に魅了されるうちに、私はふらふらと最初の扉を押している。彼女たちに共通するのは愛と批評性、フットワークの軽さ、情報収集力、ネットリテラシー、そしてどんなにのほほんと推しを愛でているように見えても、抑圧に満ちた社会への反発を感じさせるところだ。こうあれという命令から自由になりたい、私は私の好きを、誰からも決められたくない、もっともっと美しいものや楽しいもので世界がいっぱいになればいいのに。そんな気持ちを強く胸に秘めた人ほど、好きなものについて喋り出すと、熱と知性がほとばしり、結果、私のような新規を大量に引き入れている気がする。
 松田青子氏の数年間分のカルチャー摂取をまとめた新刊は、エキサイティングな手引き書だ。本を閉じた瞬間、いや、開いたが最後、読者の毎日が、大忙しになることは必至である。映画やドラマや舞台、好きな俳優のために、ときめいて泣いて怒って、海を越え、ツイッターやインスタに張り付いて、執筆中もネトフリの誘惑と戦い、カンヌで憧れのスターに遭遇し、スイスアーミーナイフ(!)まで買う毎日が生き生きと綴られている。
 一番印象深いのは、演出家で振付け師のマシュー・ボーンとの出会いだ。彼の演出した『白鳥の湖』の鋭いジェンダー観と美しい世界に魅了された松田氏は「人生が変わった」と断言。彼の作品、および出演ダンサーを大車輪で追いかけるようになる。作家としてイギリスで行われる日本文学関係のイベントツアーに呼ばれれば、真っ先にボーン作品の上演スケジュールを確認、訪問先のノリッジでツアー中じゃないか、でも日程がかぶらない、よし! そんなら前乗りだ! ロンドンから列車で二時間半揺られ、ほとんどの店が夜の七時ともなれば閉まっているような、Wi-Fi もなかなか繋がらない街をさまよい、人に道を聞きながらホテルにたどり着き、翌日は上演時間までフィッシュアンドチップスを食べ、白髪の観客たちと仲良くアイスを舐める。ただ一つの舞台を見るためだけに、自分のもてる全てをぶっこんでいく様は圧巻だ。
 海外スターのSNS投稿をつぶさに観察している松田氏は、ネット上に一生残るからこそ、かえって見逃されてしまいがちな、あの人にあそこから"いいね!"が来た、こんなコメントがこんな時ついたというような、奇跡の瞬間まで光の速さでキャッチする。テイラー・スウィフトのゴシップのあれこれへ複雑な愛を綴った章なんて、これだけで近代アメリカ史の一部である。エマ・ストーンのきらめきを凝縮したような一瞬を熱く語った後で、この動画は今もYouTubeで見られますよ、というような親切な指南もある。SNS時代の紙の書き手にしかできない記録の残し方を一つ、学んだ気がする。
 紹介されるのはいずれも海外の作品で、フェミニズムや人種差別問題、LGBTQを題材としたものばかりだ。まだ日本では聞きなれない気鋭のアーティストも多く取り上げられるが、松田氏の語り口にかかれば、いずれも私たちが向き合っている日常と地続きの場所で生きる、近しい存在だと理解できる。ちょっと怖そうなホラー映画でさえ見てみたいかも、と思わせるのは、著者の心を鷲づかみにするのが、いつだって他者への優しさを感じさせる作品ばかりだからだろう。
 誰をも傷つけないように努力し、学び続けることが、表現や生き方の幅を狭めてしまうなんてことは、絶対に絶対にないのだ。全方位に気をつかわなきゃいけないなんて最近なんだか息苦しいよねえ、とぼやく人はまず、ここで取り上げられている誰かや何かを推すことから、始めてみてもいいのかもしれない。推し心は、知らず知らずのうちに、自分の中の偏見や分断をも粉砕するからだ。
 本書はときめきに満ちた充実の推し日記でもありながら、ポリティカル・コレクトネスを守りつつこれだけ素晴らしい作品が生み出されているという事実を、膨大な事例で示した、旧社会への強烈なアンチテーゼでもある。
 
 (ゆずき・あさこ 作家)

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