書評

2019年8月号掲載

瑞々しい焦れったさ

高樹のぶ子『格闘』

小池真理子

対象書籍名:『格闘』
対象著者:高樹のぶ子
対象書籍ISBN:978-4-10-102424-0

 なんとも抽象度の高い「焦れったさ」が、読み手の興奮をかきたててくる。
 本作に登場する男女が、おずおずと惹かれ合っていくであろうことは早いうちから想像できる。いずれは結ばれるに違いない......そう確信を抱きつつ読み進めていくのに、なかなかそうならない。思いがけない邪魔が入るとか、気持ちのすれ違いが起こるとか、そういった定番の理由からではなく、文字通り、あたかも「勝つか負けるか」の「格闘技」のごとく、主人公の女性は「敗北」し続けていく。
 だが、それだけでは終わらない。終わるはずなどないことは百も承知なので、読む側は、ただ、ただ、焦らされていく。どちらかがやむなく敗北するのは男女の間のことだから仕方がないにせよ、せめてそれまでに接吻ひとつ、抱擁ひとつでもいいから、交わしてほしい、そうでもしてもらわないと、読んでいて収拾がつかなくなるではないか、などと落ち着かない気持ちにかられ、じりじりさせられる。
 この男女は、双方がそれぞれ違った意味で強かで、それゆえ、なかなか一筋縄ではいかない。充分、ことばを通い合わせているはずだというのに、互いの目の奥にあるものを素直に絡み合わせることができずにいる。
 とはいえ、作者の意図した着地点がそこ(つまり性的関心の行き着く先)にあったのかどうかは定かではない。描かれている世界は深遠で、うねり、曲がりくねり、闇に向かって堕ちていくかと思えば、いつのまにか猛々しく浮上して、その謎めいた流れの中に、いつしか読者はどっぷり浸かってしまう。
 舞台となっている場所は曖昧である。少しさびれた小さな地方都市と、いかにもうらぶれた漁港の町が交互に描かれるが、特定はされていない。
 主人公の「私」は作家である。彼女には「何十年も昔に書いた惨めな失敗作」があった。出版にこぎつけるどころか、「とうの昔に捨てた」作品である。二度と読み返す気になれなかったのだが、勇気を出して再読しようとするところから物語の幕が上げられる。それは、かつてマスコミで話題になったことのある、いっぷう変わった孤高の柔道家について書いたノンフィクションであった。
 羽良勝利(はらかつとし)という名を縮めて、世間でハラショウと呼ばれていた男を取材し、ハラショウのノンフィクションを書こうとしていた作家の遠い過去の日々に、いったい何があったのか。ハラショウとは実のところ何者で、どんな男だったのか。彼との間に生まれた感情は何だったのか。なぜ、彼女はそれを出版しないまま、闇に葬ったのか。過去と現在を交錯させつつ、物語はまことに繊細に、ミステリアスなかたちで進められていく。
 作者の高樹のぶ子はこの作品に、『格闘』という、直球のタイトルをつけた。柔道と高樹のぶ子、と言われても、容易に結びつけることができない。しかも、本作の各章は、「出足払」「浮腰」「腕挫十字固」「裸絞」「金次郎返し」などといった柔道用語がそのまま章タイトルに使われ、小説とは別に、作者によってそれらの用語が解説されている。解説文は教科書や専門書の中の文章のように明晰で、一切の感情が排されている。にもかかわらず、そこには作者が描こうとしたもののエッセンスのすべてが詰まっていて、読者は濃厚なエロティシズムの香りを嗅ぎ取る。
 今一度繰り返すが、高樹のぶ子と柔道、である。一見、何の関連性、共通項もなさそうな両者のイメージは、しかし、読み進めていくうちにたちまち覆されていく。柔道という競技が孕んでいる、官能的な熱のようなものが伝わってくる。表向き、あくまでも楚々とした体裁をとりつつも、作品はすさまじい熱量を帯びながら読者を誘惑し続ける。
 作家が生涯を通して追い続けるテーマは、結局のところひとつしかない。どれほどジャンルの異なるものを書こうが、意図的に文体を変えようが、一人の作家は常に、自身の中に根ざしている、たったひとつのテーマを追いかけていくものだろう。
 高樹のぶ子も、その姿勢を崩さない。崩そうともしていない。思考と官能の完全なる合致。マルグリット・デュラスは七十歳の時に、十五歳の少女が体験した性愛を瑞々しく描いた。高樹もまた、デュラス同様、さらに濃密に進化し続けていくのだろう。本作『格闘』の誕生が、そのことを裏付けている。

 (こいけ・まりこ 作家)

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