書評

2019年8月号掲載

遥か彼方の

ウラジーミル・ナボコフ『賜物 父の蝶』

野中柊

対象書籍名:『賜物 父の蝶』
対象著者:ウラジーミル・ナボコフ著/沼野充義 小西昌隆訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505609-4

 ときおり気まぐれにページを捲り、ふと心惹かれた文章をあらためて読んでみる、そんな本が何冊かある。たとえば、『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』だ。この本をはじめて手にしたのは、十代の頃? いや、二十代になっていただろうか。いったい、いつサイドラインを引いたものか、色褪せかけた赤インクの、すこし震えた線の脇には、こんなセンテンスがある。「私は自分がだれかを愛していると思うと、つい自分の愛を――自分の心を、自分のなかのいちばん敏感な核を――宇宙のはるかかなたの地点と直線で結びつけてしまう。」もう何度も読んで心に刻んだはずなのに、ナボコフの言葉は、そのつど、わたしのからだに真新しく響く。
 同書にて、ナボコフは「率直に告白するが、私は時間の存在を信じる者ではない。」と書いているけれど、その独自の時間感覚にもとづいて綴られた過去は、現在よりよほどくっきりとした輪郭で目の前に現れてくるようで、ことに光や色彩の描写の美しさ、鮮やかさには驚いてしまう。この著者にとって記憶というのは、もはや存在しないのかもしれない遥か彼方の星を、その光彩をたどって見極めるための高性能のテレスコープのようなものなのだろうか。
 だからこそ、この文章を読んだときには、胸を突かれる思いがした。「ロシアから救い出してきた唯一の財産――ロシア語――を外国語の影響で忘れたり、損なったりしないかという心配は本当に病的なほどだった。それは二十年後英語の散文をロシア語の域まで高めることができなくて経験する不安よりもはるかに強い不安だった。」
 ロシア語と英語のバイリンガル――いや、フランス語での執筆も可能だったというから、トライリンガルの亡命作家であるナボコフは、軽々と異言語の垣根を超えて、流麗に言葉を操り、緻密な作品を生み出してきたようにみえて、その実、日々、不安に慄いていた。そう思って読むと、『賜物』は、いっそうせつなく面白い。英語で書かれたメモワール『記憶よ、語れ』の刊行から遡ること十四年前に、ナボコフが『マーシェンカ』『キング、クイーン、ジャック』『絶望』など何作もの小説をものしたあとで、ロシア語で執筆した最後の長編小説である。
 主人公は、フョードル・コンスタンチノヴィチ・ゴドゥノフ=チェルディンツェフ。ロシア革命により祖国を追われた二十代半ばの貴族の子息で、ベルリンで亡命生活を送っている。文学を志す一方で、蝶やチェスを愛好。くわえて敬愛する父を失ってしまったという点においても、自伝的小説であるように読める――が、ナボコフ本人は、それをあくまでも否定している。この作品において伝えようとしたのは自らのことではなく、ロシア文学についてなのだと言いたかったのかもしれない。なにしろ、作中のあちこちに宝石のようにロシアの小説や詩からの引用を鏤めたうえに、英語版の序文には「そのヒロインはジーナではなく、ロシア文学である。」と書いているのだから。ちなみに、ジーナはナボコフ夫人・ヴェーラを彷彿とさせる、フョードルの運命の恋人だ。
 父も祖国も失い、いずれロシア文学も、この世界からなし崩しに失われゆくのではないか、という畏れと危惧――この小説を執筆しているさなか、実はナボコフはただひとり、ここではない未来に生きていたのだとしたら? 『賜物』とタイトルを付けられた、この作品は遥か彼方の星のような過去であり、記憶であり、今まさに失われようとしているたいせつなものを、断じて失わないための祈りの装置だったのかもしれない、と考えずにいられなくなる。
 なお本書には、『父の蝶』が併録されている。フョードルの少年時代の追想が、鱗翅類学者だった父への思慕、蝶や蛾、進化や分類学についての論考とともに語られている。未完の草稿のまま、ナボコフの生前には発表されなかったものだ。あきらかに『賜物』と深い関わりがある、どこか謎めいた佇まいの短編小説が、いつ書かれ、なぜ完成されることがなかったのか諸説あるようだが、いつか読みたいと思っていた作品を、ついに手にすることができて嬉しい。「私が朝真っ先に外を見るのが太陽のためだったとすれば、それは、太陽が出れば蝶が出てくるからだった。」と、ナボコフの記憶が語るところの美しい文章を、また思い出してしまった。

 (のなか・ひいらぎ 作家)

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