インタビュー

2019年9月号掲載

特集 吉田修一の20年

吉田修一、新潮文庫の自作を語る 【前篇】

ちょっと偉そうなことを言わせてもらうと―― 
初めて腹蔵なく語った創作の裏側。

吉田修一

聞き手/「波」編集部

対象著者:吉田修一

『東京湾景』(2003年)

 品川埠頭の倉庫街で暮らし働く亮介が、携帯サイトの「涼子」と初めて出会った25歳の誕生日。嘘と隠し事で仕掛けあう互いのゲームの目論見は、突然に押し寄せた愛おしさにかき消え、二人は運命の恋に翻弄される。東京湾岸を恋人たちの聖地に変えた、最高にリアルでせつないラブストーリー。

 ――今度、『東京湾景』に後日譚というか、新たに短篇「東京湾景・立夏」を書下ろして頂いて、文庫の新装版を作りました。

吉田 それで久々に読み返したんですが、まったく自分の作品ではないみたいでした。他の作家の方も十五年前の旧作を読むと、そんなふうに思うものですかね。

 ――どのへんでそう思いました?

吉田 まず、いろんな意味で〈若い作品〉ですよね。こんなに恋愛小説していたんだと思ったし。書き始めたのは、何度か芥川賞の候補になった後、『パレード』(02年)で山本周五郎賞をもらった頃でしたね。

 ――冒頭の「東京モノレール」が「小説新潮」に掲載された時、目次か表紙に〈受賞第一作〉と書いた記憶があります。

吉田 そう、うまく連作になればいいな、くらいに思って書いたのが「東京モノレール」でした。

 ――二〇〇二年の五月に山本賞を受賞して、七月には「東京モノレール」の直前に書かれた「パーク・ライフ」で芥川賞も受賞されます。いまだに純文学の賞である芥川賞とエンタメの山本賞を両方受賞した作家は他にいません。

吉田 『パレード』も『東京湾景』も別にエンタメを意識して書いてはいないんですよ。『パレード』は五人の話が繋がって長篇になるんですけど、一篇一篇はそれまで「文學界」に書いていた短篇と変わらないと思います(注・吉田さんは「最後の息子」で文學界新人賞を受賞して作家デビューし、「文學界」で短篇を書き続け、受賞までに四たび芥川賞候補になった)。どれも東京に住む若い人間が何かを抱えている話だし、ラストもモヤモヤした終り方だし。
『パレード』は初めての長い小説だったから、うまく長篇になるのかなというプレッシャーはありましたが、五篇を繋げてみたら大きな物語のうねりみたいなものが生まれて、さらに「これはエンターテインメントだ」と評価されたので、書いた僕が驚いた(笑)。エンタメと純文学の違いって、よくわからないまま書いていました。
 僕はよく、小説は場所への興味から始まると言うんですけど、『東京湾景』もそうですね。直前の「パーク・ライフ」は日比谷公園が舞台でした。じゃあ、次はどこかなあと考えた時に、自分が働いたことのあるお台場と品川を思いついたんです。あのへんの雰囲気を書いた小説ってまだないんじゃないか。場所が決まると、次はその場所にいちばん似合う物語を考える。そこで、恋愛小説をやろうとなった気がします。
 その段階ではまだ組み立ても何もありません。出会い系サイトで美緒と亮介が出会うことしか決めてなかったと思う。連作になるにしても、別のカップルを書くつもりじゃなかったのかなあ。

 ――当時のインタビューをひっくり返してみたら、吉田さんは「もう最初からラストのシーンを決めてた」みたいに仰ってましたよ。

吉田 たぶん、それは嘘ついてる(笑)。あの終り方は、本当にぎりぎりで出てきたんですよ。このあいだ「週刊新潮」で一年間の連載が終わった『湖の女たち』(20年春刊行予定)のラストだって、思いついたのはつい最近(笑)。

 さっき、『東京湾景』を〈若い作品〉と呼んだ理由のひとつは、青山ほたるって小説家が出てくるでしょう?

 ――ああ、彼女の作中内小説みたいなのがチラッと出てきますね。

吉田 いわゆる恋愛小説を直球で書くのがまだ照れくさかったのだと思いますね。だから、ワンクッション置くために小説家を出したのでしょうね。いま書いたら、彼女は出てこないと思う。

 ――吉田さんと小説の打合せをすると、必ず土地とか地図の話になりましたね。

吉田 そのへんは相変わらずですよ。『湖の女たち』でもそうでしたけど(注・地名は変えているが琵琶湖周辺が舞台)、小説を書く時、土地がいちばん味方になってくれるんですよ。土地は裏切らない、みたいな(笑)。

 ――地図は普通の地図をご覧になる?

吉田 最近は Google マップとかも見ます。昔はぴあMAPとか好きでした。

 ――ストリートビューなんかも?

吉田 大好きで止まんなくなります。

 ――Google マップは『東京湾景』の頃にはなかったのに、吉田さんの小説は俯瞰や高低差があるというか、三次元的に土地を捉えている感じを受けます。

吉田 「パーク・ライフ」で、風船にカメラをつけて公園を写すところがあるんです。まだドローンがない時に書いたのが自慢(笑)。僕の地図というか、街の見方は高度も入っている気はします。

 ――今度の書下ろし短篇「東京湾景・立夏」の舞台はコリドー街です。これも場所からの発想でしたか?

吉田 『東京湾景』のまともな続篇というか、美緒と亮介の後日譚は多分書けないなと最初からわかっていて、ではどうしようかと。十何年か経って、何か変わったことあるのかなって考えながら、やっぱり地図を見ていたんですよ。せいぜいお台場に映画を観に行くくらいで、あのへんにあまり行かなくなってたし......で、ふとコリドー街があったぞと(笑)。

 ――直線距離だと意外と近いし、ゆりかもめだとすぐだし。

吉田 うん、元の舞台に近いし、今の恋愛小説だったらここでしょう、みたいな。

同席の編集者 私、本当に何の衒いもなく言うんですけど、歩くと絶対ひっかけられるんですよ。あそこはもう大阪のナンパ橋みたいになっちゃってます。ひょっとしたら、今の若い人にはあれが銀座のイメージなのかもしれませんね。

吉田 僕、ああいうナンパ自体は嫌いじゃないんですよ。とても健全な気がする。

 ――で、「立夏」の場所を決めて、ここは読者のために伏せますが、ああいう物語の仕掛けを思いつかれた。

吉田 あれは思いついた瞬間、「あ、書き終えた」って感じがしました(笑)。

 ――吉田さんの新人賞の頃からの支持者に辻原登さんがいます。辻原さんは「吉田さんは今どき珍しく人情話が書ける作家だ」という言い方をされていましたね。人情話をきちんと書けるからエンタメも書けるのだと思いますが、いわゆる純文学的なところと人情話のところ、それともう一つ、吉田さんは必ず仕掛けを考えますよね? 「立夏」でいうと、健全な現在のナンパ話と、あの仕掛けを両方成立させているのがすごく刺激的なんです。

吉田 それは......ちょっと偉そうなこと言わせてもらうと、構成というか仕掛けというか、そこは作家がやらなきゃいけないことだと思うんです。それが込みで小説は小説というものになると僕は考えています。
 そこをまったく無視して、いわゆる物語として語っていくのはもちろんありですが、それはやっぱり物語なわけですよね。小説は、構造をちゃんと組み立てていかないと小説とは呼ばれないんじゃないかなとぼんやり思っているんです。デビュー作以来、そのへんはいろんなことをやってきたと思うし、これからもやっていきたいんですよね。

『7月24日通り』(2004年)

 地味で目立たぬOL本田小百合は、港が見える自分の町をリスボンに見立てるのが、ひそかな愉しみ。異国気分で「7月24日通り」をバス通勤し、退屈な毎日をやり過ごしている。そんな折届いた同窓会の知らせ。高校時代一番人気だった聡史も東京から帰ってくるらしい......。もう一度恋する勇気がわく傑作恋愛長篇。

 ――『7月24日通り』は仕掛けを思いついたときに、それこそ半分出来た感じではなかったですか?

吉田 長崎をリスボンに見立てながら暮らしている地味な女の子が主人公ですが、最初にあったのはそれだけで、ラストの方で十項目のリストを出すなんてのは、最初は考えていませんでした。どの作品でもそうですけど、小説を書いている時は、「これ、最後で化けてくれないかな」と願いながら書き進めているんです。あれこれ手さぐりでやっているうちに、鍵穴に鍵がカチッと嵌(は)まるみたいな時があって、「ああ、来た来た」(笑)。これは快感ですよ。
 でも、「東京湾景・立夏」は短篇だから別ですが、長篇の場合は、書き始める前に「嵌まった!」と思うアイデアが浮かんだとしても、わりと......。

 ――捨ててしまう? 人工的な感じがするんですかね?

吉田 うん、なんか窮屈というか、書く前に思いついたものには、単純に興味がなくなってしまうんですね。で、『7月24日通り』は、執筆の途中で浮かんだリストのアイデアがうまく嵌まったと思います。

 ――リスボンの街と長崎を重ね合わせるというアイデアはこの小説のために思いついたんですか?

吉田 長崎の子どもは学校で習うんですよ。長崎の街はポルトガルの街に似てるって。坂があって、石畳があって、港に向って開けてて、みたいに。

 ――リスボンへ行かれたことは?

吉田 書き終えた後で行ったんです。7月24日通りなんて、地図で見つけただけだったから、実際に行ってみましたよ。普通の産業道路です(笑)。

『7月24日通り』は「小説新潮」と同時にドコモのケータイ小説として配信もされたんですよ。ケータイ小説の走りの時期でした。僕はけっこう媒体を気にするので、ポップに書こうという意識はあったと思います。女子の一人称というのも、これで初めてやりました。語り手の性別は、実際にやってみると、そんなに意識せずに書けました。

 ――『東京湾景』は連続ドラマになったし、『7月24日通り』は映画になりました。映画の試写にご一緒した時、吉田さんが「ひとりで見ます」って、サッと少し離れた席に行かれた。映画好きとしては、いろんな感慨があったのでは、と......。

吉田 あの頃を思い出すと恥ずかしいんですよ。なんか作家としてセルフプロデュースしなきゃいけない、と思い込んでいたフシがあるんです(笑)。山本賞と芥川賞を連続でもらって、本当にガラッと景色が変わったんです。それまでは作家と名乗っていても、「文學界」に半年に一つ短篇を書くくらいですから、人に見られることも、写真を撮られることもない。そんな生活を五年くらい続けていたのがガラリと一変した時に、これからどうするか、自分でちゃんと考えなきゃいけないんだなと思って......ほら、何て言いましたっけ、キャラ作りに迷うのって?

 ――えーと、迷走?

吉田 そう、明らかに迷走してた(笑)。作家としてどう見られたらいいのか、なんて悩んでいました。作品というより、作者が迷走してた。原作の映画もひとりで見た方がいいのかなとか、作家なんだから夜眠れないとか言ってみようかとか......無茶苦茶よく眠れてるのに(笑)。

 ――あの頃は、周りの人が信用できないぐらいの感じでした?

吉田 逆なんですよ。だから、かえって迷いが(笑)。でも、よく覚えているのは、二つの文学賞をもらった時、ある人に、「これでもう吉田君、十年大丈夫だよ」って言われたんです。それを聞いた瞬間、「あ、失敗できる」と思った。十年大丈夫ということは、十年も失敗できるんだって(笑)。だから、この時期はいろんな小説を書いているんですよ。『東京湾景』に『日曜日たち』(03年)、『7月24日通り』、『長崎乱楽坂』、『ランドマーク』、『春、バーニーズで』(すべて04年)、みんなバラバラでしょ?

 ――しかも面白い小説ばかりですよ。さすが、作者は迷走しても作品は迷走してない(笑)。もうひとつ、作品の文体ではなくて、ヴォイスというんでしょうか、作品が読者に対して出す声が、この時期に厚く安定してきたというか、変化したように思ったんです。

吉田 あ、それは本当にそうですね。余裕とも違うけれど......『パレード』以前、「文學界」で短篇をこつこつ書いていた頃って、もうこの一作で生きるか死ぬかだったんですよ(笑)。いや真面目に、いま書いているこの小説がダメだったら、もう本当に終わりだと思っていました。新人賞を取って、何とか雑誌に新作が掲載され続けて、必死に戦っている作家って、二作続けて失敗作を書いたらもう載らなくなるわけです。野間新人賞、三島賞、芥川賞なんかの候補になったら、次も書けるけど、二作空振りしたら、間違いなく消えていく。またそれを周囲がみんな、わかっているわけです。ギリギリで書いていましたよ。

 ――ボツになった作品も?

吉田 いっぱいあります。ただ、芥川賞の後で文春の編集者の方々から言われたんですけど、「吉田さんはボツになっても凹まなかったね」って。僕は、「このへん変えましょう」と言われると、一回くらいは書き直しますけど、わりとあっさり、もういいやと思っちゃうんですよ。「あと二週間ください」つって、まったく新しい短篇を書いちゃう。書きたいことは変わらないので。そっちの方が勢いも出るのかな、そのまま掲載されたりして。

 ――ギリギリだけれども、「この作品だけは!」みたいには執着せずに......。

吉田 執着はあまりしないんですね。これは人間のタイプなんでしょうけど、「これを何とか」と思っても、どうにもならない場合ってあるじゃないですか。例えば、担当編集者が異動するとかね、外的な要因もあるかもしれないし。

『長崎乱楽坂』(2004年)

 荒くれどもの棲む大家族に育った幼い駿は、ある日、若い衆が女たちを連れ込んでは淫蕩にふける古い離れの家の一隅に、幽霊がいるのに気づく――。湾の見える町に根を下ろす、昭和後期、地方侠家の栄光と没落のなかに、少年の繊細な心の成長を追う傑作長篇。

 ――『長崎乱楽坂』刊行の頃のインタビューも読み返しますと、『東京湾景』『パーク・ライフ』『ランドマーク』と書いてきたから、都会系の作家と思われないように云々と。

吉田 ほら、またキャラの迷走が(笑)。

 ――都会的な恋愛小説家とか括られると、あまりいいことなさそうだなと思ってらしたんですか?

吉田 いや、そこまで性格ひん曲がってないです(笑)。たぶん、少しビックリ状態だったんですよ。『パーク・ライフ』書いたあと、本当に雑誌なんかの紹介で都会派作家って書いてあって、そりゃビックリしますよ。自然と「いやいや、違うんですよ」ってなるじゃないですか。それで『長崎乱楽坂』を書いた(笑)。「いや、こっちなんです」って。

 ――「こっちなんです」というのは、「こっちもできます」とはちょっと違いますよね?

吉田 全然違います。「こっちもできます」じゃないです。「いやもう、僕はこれなんですよ」っていう感じ(笑)。実際、『乱楽坂』にでてくる人物や風景は、僕が見てきたものばかりです。

 ――今は〈反社〉なんて新語もありますが......。

吉田 長崎の実家は酒屋だし、そんな家に生まれ育ったわけではないけれど、わりと身近にその手の人たちがいたんですよ。親戚には肉体労働者も多くて、気性の荒い男たちがたくさんいました。

 ――それを吉田さんは物語の豊かな水源にされていますね。『国宝』(18年)の最初の方、久しぶりに『長崎乱楽坂』の世界だと嬉しくなりました。

吉田 『乱楽坂』は連作だから、『国宝』のような大きな物語じゃなくて、男の子が少しずつ大きくなりながら、その年齢なりの視線で周囲を徐々に見回していく。もちろん小説だから事実とは違うのですが、自分が本当に見たものを思い出しながら書いたという点で、ほかの作品とはハッキリ異なります。

 ――『長崎乱楽坂』にせよ『7月24日通り』や『悪人』(07年)にせよ、長崎があるのはやっぱり得ですよね、作家として。

吉田 これはもう本当に得。で、いま思うと、肉体労働者の生活が近くにあったのも得。やはり、地方の街で、ああいう人たちの近くで育つと、人間の生(ナマ)っぽい感じがよくわかるんですよ。もちろん東京のサラリーマンの家庭にも生っぽいところはあるのでしょうけど。
 作家になってしばらく経った時、東京の都心の道を歩いていたら、いわゆる肉体労働系のお兄ちゃんたちが屯(たむろ)ってた。そしたら、そのお兄ちゃんたちを「怖い」と言う人がいたんです。逆に僕は、背広のサラリーマンの人たちが集まっていると体が固まるんですよ。もし、こっちに肉体労働者の人たち、あっちに丸の内のサラリーマンたちがいて、どちらかに混じって弁当を食べなきゃいけないと言われたら、間違いなく肉体労働者の方で食べます。刷り込みみたいに馴染みがあって、落ち着くんですよね。
 その彼らを「怖い」と言われた時、「あ、なるほど」と思った。もう作家になっていたから、「こういうことをちゃんと書いていけばいいんだな」って。
 あと、長崎を書いていて楽なのは全然遠慮しなくていいこと(笑)。『ランドマーク』の大宮でも、『湖の女たち』の琵琶湖でも、少しは遠慮して書いているんですよ。長崎はどんなに悪く書いても平気......僕が勝手にそう思っているだけですかね?

 (よしだ・しゅういち)

 (次号後篇につづく)

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