書評・エッセイ

2019年9月号掲載

特集 吉田修一の20年

東京湾景・立夏(抄)

吉田修一

コリドー街ですれ違った26歳のふたりは、愛の予感に満ちた夜に泳ぎ出す。
名作『東京湾景』のその後を描く、16年目のサプライズストーリー!

対象書籍名:『東京湾景』
対象著者:吉田修一
対象書籍ISBN:978-4-10-128758-4

 パブは混み合っていて、少し離れたテーブルにいる女の横顔が、バーカウンターへ向かう客や料理を運ぶ店員たちの背中に遮られては、また現れる。昔、こんな香港(ホンコン)映画を見たことがあったな、と大輝(だいき)は思う。広い通りを挟んで見つめ合う男と女の動きだけが止まっていて、二人の間を香港の赤い二階建てバスやタクシーがスローモーションで走っていく。 「ねえ、名刺下さいよ」
 ふいに自分たちのテーブルでの会話が耳に戻り、大輝は、「あ、うん」と慣れた手つきで、さっき表通りで声をかけたばかりの女たちに名刺を差し出した。
「あー」
 名刺を受け取った途端、女たちが顔を見合わせ、「......先週もここの人に声かけられたよね」と笑う。
「そうなの? 俺らの先輩っぽかった? それとも後輩?」
 女たちの会話に食いついた同期の鷹司(たかつかさ)にこの場は任せ、大輝はまた少し離れたテーブルの女に目を向けた。向こうのテーブルの男女間でも、今まさに名刺交換が始まっている。
 あれはいつだったか、丸の内のオフィスから、ここコリドー街に向かっている途中、鷹司がこんなことを言っていた。
「コリドー街で声かけて、女の子に名刺渡した瞬間にさ、その女の子が心ん中でガッツポーズ取ったのを、無理に隠すような顔するじゃん。俺さ、あの瞬間の優越感に浸るために、毎週みたいにコリドー街に通ってんのかもって思うよ」と。
「お前、性格腐ってんなー」と、大輝は呆(あき)れたのだが、「いやいや、お前だって腐ってるから、毎週取っ替え引っ替え女の子とヤレてるんだろうよ」と笑われた。
 鷹司とは大学もサークルも一緒で、昔から気が合う。もちろんこんな週末を過ごしているのだから、男としてデリカシーのある方じゃない。ただ、たとえばの話だが、別れ話をした女が、「別れたくない」と泣きながら駅まで追いかけてきた、というその姿を動画に撮り、笑いながら回し見するような奴(やつ)らも仲間内にはいるので、そいつらに比べれば、デリカシーはある方になる。
 テーブルでは鷹司がいつものように女たちの仕事や出身地を訊(き)きながら、鷹司という名前からも分かるように自分の家系は元華族だとか、ちょいちょい自慢話を入れている。
「ねえ、佐竹さんも、鷹司さんと同じ部署なんですか?」
 さっき渡した名刺を眺めていた目の前の女に訊かれ、「そうだよ。大きく分けると同じエネルギーグループで、俺は石油やガスの探鉱・開発、こいつは鉱石」と短く説明した。
「ってことは油田とか? すごい」
 いつもなら仕事の話に食いついてきた女相手に、イスタンブールやテキサス、ドバイと、これまでに訪れた国々の話をするのだが、なぜか今夜に限っては口が重い。
 今夜引っかけた女の子に決して魅力がないわけではない。賑(にぎ)わう表通りですれ違った中でも、ダントツでいいのに声をかけた。
「ごめん、俺、ちょっと酒、買ってくるよ。みんなは? 何、飲む?」
 まだグラスにはビールが半分以上残っていたが、大輝はスツールを降りた。少し離れたテーブルにいる例の女も、酒の注文にバーカウンターへ向かおうとしていた。
「じゃ、俺、ハイボール」
「私も」
「佐竹さんは、何飲むんですか?」
 前に座っている女に訊かれ、
「えっと、ホワイトビールかな」と大輝は答えた。
「ビールかぁ......。じゃ、私、白ワインお願いしようかな」
「了解。なんでもいいの?」
「もしシャルドネがあったら......」
「ここ、ムルソーがあったと思う。それでいい?」
 大輝は早口で応(こた)えると、混み合った店内をバーカウンターへ向かった。
 バーには注文待ちの短い列ができている。例の女の後ろに並ぶと、彼女もすぐに気づいたようで、ちらっと背後を振り返る。
「また、いるの?」
 大輝はからかうように言った。
「なんで、またいるって分かるのよ。バカみたい」と彼女も容赦ない。
「で、今日のお相手は?」
「気になる?」
「別に」
 列が進んで、彼女の注文の番となる。大輝はメニューを覗(のぞ)き込む、彼女のうなじをなんとなく見つめた。
 彼女と初めて会ったのは、今からひと月ほど前、ゴールデンウィーク明けの金曜日で、まだ五月だというのに、東京が初めての夏日となった夜だった。いつものように鷹司と二人で賑やかなコリドー街の通りに立ち、行き交う女たちを物色していると、明らかに他とはレベルの違う女たちが二人歩いてきた。
 もちろん反応したのは、他の男たちも同様で、遠慮がちながら次から次に声をかけているのだが、彼女たちはそんな男たちを冷たくあしらうでもなく、かといって誘いに乗るわけでもなく、まるでちょっと今日は風が強いね、くらいの顔で歩いてくる。
「おおお、当たり来た」
 鷹司が腰かけていたガードレールから早速降りて、近づいてきた女たちの前に仁王立ちする。
「ちょっとすいません。本気でお話ししたい。どんな人か知りたい」
 鷹司の直球勝負に、彼女たちは一瞬顔を見合わせた。これまでの風よりは、少し心地よく感じてくれたのかもしれず、すかさず大輝も鷹司の横に立つと、「この先、もう外堀通りに出ちゃうから、Uターンして戻ってくんの、ちょっとかっこ悪いよ」と援護射撃した。
「いいよ」
 驚くほどあっさりと彼女たちは誘いに乗った。
 その後、一緒に入ったパブで聞いた話によれば、彼女たちは今夜、十組目に声をかけてきた人たちの誘いに乗ると決めていたらしかった。
「うわっ、何それ。感じ悪い」
 勝利の美酒に酔っていた鷹司も、思わず本音を吐いたのだが、彼女たちはさほど悪びれる様子もなく、「こんなとこに来て、声かけたり、かけられたりしてる人たちの中に、感じ悪くない人なんている?」と言い切ったのが、件(くだん)の彼女だった。そんな彼女のあけすけな言葉に、「そう言い切られると、なんかますます楽しくなってくる」と大輝は笑ったのだが、その一言に彼女がちょっとだけ共感してくれたような気もした。
 ちなみに鷹司は、「昔好きだった子に似てる」方をすでに口説き始めていた。実際に似ているわけではなく、今夜自分がどっちを狙(ねら)っているか、お互いにその場で伝え合う暗号のようなもので、暗黙の了解として先に言った者勝ちになっている。
 その夜、当初は混み合った店内の隅で、小さなテーブルを囲んで立ち飲みしていたが、壁際(かべぎわ)の二人席が空き、鷹司たちが移った。残った大輝はふと思い出して、「名刺ちょうだいよ」と頼んだ。
 もらった名刺は大手クレジット会社のもので、「営業部 碓井明日香(うすいあすか)」とあった。
「明日香さん......、いくつ?」
 大輝は名刺を眺めながら尋ねた。
「二十六」
「あ! 一緒」
「え? そんなに驚くことある?」
「いや、あのさ、俺らが生まれた年につけられた名前の人気ランキングってのがあって、俺の『大輝』ってのは第四位なんだけど、女の子の第四位が『明日香』なんだよね」
「そうなの?」
「うん、らしいよ」
「四位って微妙じゃない?」
「そうなの。多そうで、あんまりいないっていう。学校でも同じ名前の奴はいなかったし、明日香って子もいなかったな」
「私、高校のころ、いたよ。明日香って、まったく同じ字で。クラスも違って、あんまり付き合いなかったけど。大輝って子もいたような気がするなあ」
「でも、その程度なんだよね、第四位」
「確かに。ねえ、ちなみに一位は?」
「一位は、男が翔太(しょうた)で、女が美咲(みさき)」
「ああ、確かにいる。翔太も美咲も知り合いにいる」
「だよね、俺もいるもん」
「さすが、一位。すごいね」
 会話が盛り上がらなかったわけではなかった。どちらかと言えばその逆で、もうずっと前から知っているような、そんな親近感さえあった。
 そのうち鷹司たちが、「俺たち、もう一軒行くけど」と声をかけてきた。
「カラオケ?」
 大輝はそう訊きながら、明日香の様子を窺(うかが)ったのだが、すでに片手を上げ、相方に「バイバイ」と手を振っている。
「俺ら、やめとくわ」と大輝は断った。
 なんだかとても気分が良かった。ただ、鷹司たちを見送って、もう一杯何か飲もうよとメニューを捲(めく)ると、「ごめん、私、今日はもういいや。そろそろ帰る」と彼女が言い出す。
「え? そうなの?」
 てっきり二人きりの時間を選んでくれたと思っていたので、かなり驚いた。
 実際、駆け引きでもないらしく、彼女は時間を確かめると、「まだ終電間に合いそう」と席を立つ。つられるように店を出たところで、「ごちそうさま。今日は楽しかった」とお礼を言われた。
 普段なら、「じゃ、気をつけて。また連絡するよ」と見送るのだが、なぜかその夜に限って、「楽しかったなんて、嘘(うそ)つくなよ」と言ってしまったのだ。
 声が大きく、賑わった歩道で注目を浴びた。ナンパスポットとして、すっかり定着したコリドー街は、言うなれば出会いだけの場所であり、決して別れの場所ではない。週末ごとにここで何十何百の出会いが生まれ、その後の何十何百の別れは、どうぞよそでお願いしますという場所に響いた大輝の声は、やはり違和感がありすぎた。
 衆目の中、無視して帰ると思っていた彼女が振り返ったのはその時だった。
「自分が何やっても楽しくないからって、八つ当たりしないでよ」
 大声ではなかったし、距離もあったのに、彼女の声ははっきりと耳に届いた。大輝は一瞬、何を言われたのか分からなかった。彼女はすでにこちらに背中を向けて歩き出している。すぐそこのガードレールに腰かけている男たちが、大輝をニヤニヤしながら見ている。
 大輝は男たちの視線から逃れるように彼女を追いかけた。その肩に手を置き、「ちょっと待ってよ。どういう意味? 俺、何やっても楽しくないなんて、一度も言ってないけど」と言った。
 彼女は立ち止まりながらも、これ以上話をする気はないらしく、「手、どけて」と冷たく応える。
「俺はこうやって楽しんでるつもりだけど」と大輝は食い下がった。
「だったら、それでいいじゃない」
「なんだよ、その言い方」
「だったら、どう言えばいいのよ」
 彼女が少し疲れたようにため息をつく。
 もう誰も大輝たちに目を向けていなかった。通りで立ち止まっている男女は、みんな今ここで出会ったようにしか見えないのだ。
「ごめん」
 大輝は小声ながら謝った。彼女もすでに興奮は収まっているようで、「私も言いすぎた。ごめん」と謝る。
「俺、毎週、こんな風だけど、これでも楽しいよ」
「だったら、私がさっき言ったのも、ほんと。『今日は楽しかった』」
 なんとなく居心地が悪くなった。大輝は冗談で、「さあ、修羅場も越えられたことだし、もう一軒カラオケでも行こっか」と誘った。断られるのは分かっていたが、万が一でもあればと期待もしていた。
 彼女は笑ってはくれたが、「ごめん、帰る」と首を横に振った。そのまま歩き出そうとした彼女が、ふと立ち止まる。
「......ねえ、さっき話した人気のある名前ランキング。どうして、あんなことに詳しかったの?」
「どうしてって......」
「なんかそういう話する男の人に初めて会ったから」
「妹。......妹がいてさ、教えてくれた」
「ああ」
 彼女は納得したらしく、「じゃあね」と手を振って歩いていった。
 実際、大輝という名前がその年に生まれた男の子の中で第四位だと教えてくれたのは妹だった。永遠(とわ)という妹自身の名前はやはり珍しくて百位内にも入っていないらしく、「私の名前は特別」と当時喜んでいた。
 妹は重度の脳性麻痺(まひ)で体の自由がきかない。中学に入学するころまでは、それでも車椅子(いす)でなんとか登校していたし、特別に時間をもらって試験などにも参加していたのだが、思春期を迎えたころからは家の中に閉じこもっていることが多くなった。
 あれは大輝が中学三年生のころだが、バレンタインデーに十七個もチョコレートをもらったことがある。おそらく理由としては、その一年で身長が急に伸びたことと、所属していたサッカー部でキャプテンになったことが大きいと思う。同級生や下級生からもらったチョコには熱烈なラブレターが付いているものもあった。
 大輝自身は思春期の男の子らしく、友達に冷やかされるのが嫌で、仏頂面(ぶっちょうづら)を続けていたのだが、兄の人気ぶりを誰よりも喜んだのが妹だった。
 兄がもらってきたチョコレートを並べて、誰が一番センスがあるかなどと見比べ、最後にはラブレターまで読みたいと言い出した。
 元々、妹は足の速い兄が好きだったし、ダンスの上手(うま)い兄が好きだった。だからこそ、兄に似合う女の子は自分が選ぶんだ、なんて、ませたことを小学生のころから言っていて、大輝が高校生になると、「日々の掃除当番なんて、いくらサボってもいいから、その代わり、体育祭のリレーの時だけは絶対に一番でゴール決めなきゃダメ、って言うような、そんな彼女作って欲しい」などと、冗談とはいえ、妙にリアルな理想なんかを口にするようになっていた。
 大学進学を機に、大輝は実家を出て都内で一人暮らしを始めた。神奈川の実家から通えないこともなかったが、一人で暮らしてみたかった。代わりに実家へ帰ると、大学でのあれこれを妹に話して聞かせた。一緒に暮らしているよりも、たまに会う方が話も弾む。
 サークルの女の子に告白されたとか、バイト先でラブレターをもらったとか、もっと生々しい、たとえば何度かデートした女の子に別れ話をしたら、ドラマみたいにコップの水をかけられたとか、とにかくそういう類(たぐい)の話をしてやると、妹がいつも面白がって聞いてくれた。「モテる兄貴の話は、聞いているこっちまで気分が良くなる」と笑ってくれた。
 ただ、そのころ、考えただけで息が苦しくなるような人に出会った。先輩の彼女だった。何日も思い悩んだある日、偶然のふりをして彼女の家の近所へ行った。メールを送ると、駅前のカフェまで来てくれた。彼女に素直な気持ちを伝えた。偶然ではなく、告白するためにここまで来たことも正直に告げた。
 彼女になんと言って断られたのかは覚えていない。もっと言えば、どうやって自分のアパートに帰ったかの記憶もない。そしてこの話だけは、どうしても妹にできなかった。

 作品の前半を収録しました。本作の全体は2019年9月1日発売の新潮文庫『東京湾景』(吉田修一著)でお読みください。

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