書評・エッセイ

2019年9月号掲載

世界が恩寵を所有している

ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』(新潮クレスト・ブックス)

津村記久子

対象書籍名:『わたしのいるところ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュンパ・ラヒリ著/中嶋浩郎訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590159-2

 四十六歳の、イタリアに住む独身の女性の日常における四十六の場面が描かれる。女性は大学で研究か何かを生業にして暮らしている。起伏を強調した場面はほとんどなく、彼女が体験する激しい他人との感情のやりとりは、ほとんどが回想である。それよりも、彼女が日々何を考えて暮らしているかということが詳らかに書かれる。
「待合室で」「チケット売場で」「文房具店で」「バールで」「電車の中で」といった目次を見ているだけで楽しい。彼女はあらゆる場で本当にいろいろなことを考える。例えば冒頭の「歩道で」では、道で亡くなった四十四歳の男性を悼む大理石の碑板の横を通りかかりながら、立ち止まって息子の死に思いを巡らせてくれる人への母親からの感謝の手紙を読む。彼女は碑板の前に人がいるのを見たことがないのを思い出しながら、その母親のことを気にかける。まったく同じシチュエーションはないだろうし、頻繁に書かれることではないかもしれないが、このような中庸に近い気持ちは誰の日常にも確かに存在している時間なのではないだろうか。
 彼女は、ときどき恋愛をしたりするし、家に招く長い付き合いの友達もいるし、パーティに呼んでくれる知人もいるけれども、本質的には孤独であるということに軸を置いて生きている人だ。母親とは軋轢を抱えている。仕事をちゃんとしていても、それに打ち込む自分に酔ったりしない。幸せだとか楽しさだとかを見せびらかして自身を追認したりしない。言うなれば読者に対してとても淡泊に振る舞う人なのだが、そっけないかというとそうでもない。とても真摯に日常を生き、さまざまな心の揺らぎをつかまえながら、その場その場を厚く観察して、一つ一つ考える。そのことが、読んでいる自分にとても喜びを感じさせてくれたのが不思議だった。本書は、他者の心という複雑な街路のガイドブックのようでもある。基本的には計り知れない、ダイジェストとして示されることのないその複雑な場所が、整理されて来し方と見所が説明されることが、行ったことのない街を旅した話を読むようでとても楽しかった。
 彼女の街路は別の人の街路へとつながっている。特徴的なのは、両親や元恋人や友人という近しい人々以外にも、生活していたら当然すれ違うけれども重要とはされにくい、お店の人や近しい人々の親族などについての言及が、距離の遠近に関わらずたくさんあることだ。自分の前に仕事場を使っていた詩人、トラットリアの店主の親子、友人の娘たち、仲良くできない友人の夫、学会が開催されているホテルで隣り合った異国から亡命してきた学者、病院の待合室で一緒になった女性、行きつけの文房具店を経営している家族、駅のバールの店主夫婦など、重要さや近さのソートを取り払って、彼女は他者が自分の世界を横切っていくことを認め、その様子を丹念に記述する。
 特に「お店の人」を彼女がよく見ている様子が興味深い。たとえば、妻=母親を失ったことによる強い絆を持つ店主とその娘が営んでいるトラットリアで、お客の側の父親と娘がぎくしゃくしている。かつてはそのお店で妊娠を祝ったのに、両親は離別している。父親が娘に繰り返し話しかける様子に、彼女は心を痛める。また、昔からなじみの家族で経営する文房具店がスーツケースと傘ばかり置いてある店に様変わりし、彼女は一家の行方を気にかける。「お店の人」もまた彼女を気にかける。最終盤に近い「駅で」における、電車に乗り遅れそうになった彼女からお金を取らずに送り出す駅のバールの店主の夫婦は、彼女の律された孤独に不意に差し出された労いのような印象を残す。
 最後の章で彼女は、電車の客室で外国人の五人組の男女に出会う。話はせず、あいさつがあって、食べ物を勧められるだけだ。陽気で楽しげな彼らは、持ってきた食べ物を食べさせ合い、音質の悪い携帯電話で音楽を聴きながら心を奪われ、一緒に歌う。彼女は彼らの仲間ではなく、彼らを見ているだけだけれども、それでもこの場面は感動的だ。「この世」が彼女に最良に近いものを見せるからだ。彼女が「わたしのいるところ」を他者が横切っていく様子を誠実に見つめてきたことに報いるようだとも思った。最良のものを「わたし」が所有していないとしても、世界がそれを所有していて、ときどき恩寵のように彼女に垣間見せることを、彼女は確かに受け取ることができている。
 内面の旅への同伴を許してくれた彼女に、感謝したくなる読書だった。どうもありがとうと言いたい。

 (つむら・きくこ 作家)

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