書評・エッセイ

2019年9月号掲載

連想と奇想の達人

九螺ささら『きえもの』

俵万智

対象書籍名:『きえもの』
対象著者:九螺ささら
対象書籍ISBN:978-4-10-352761-9

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 中毒性のある文章だ。このまま、いくらでも読んでいられる。いや、読んでいたい。
 タイトルがあって、短歌、散文、短歌というスタイルで、すべての章が構成されている。現代の歌物語とも言えるが、短歌で散文をサンドしているところが新鮮だ。たとえば「素麺」というタイトルに続いて次の一首。

 漢数字の一を茹でるとひらがなのしになる人の初めから終わり

 素麺の比喩としての「一」と受けとってもいいが、ほんとうに漢数字を茹でたのだと思っても楽しい。すると湯の中で、ぐんにゃりと曲がり、ひらがなの「し」になった。
「一(はじめ)」から「し(死)」......それは人の一生だというのである。文字の見た目や音から広がってゆく連想が見事。この自由自在な連想の力は、本書の随所で発揮される。
 短歌の後の散文では、老人ホーム(これも人の一生からの自然な連想だろう)で働く「わたし」が、納涼大会のために流し素麺を計画する。盛り上がっているところで、突然「因果関係は流し素麺だ」という昔の彼の言葉が思い出される。因果関係は流し素麺のように、決して逆流することはないといった意味合いだが、まさにその逆流が次の瞬間に起こる。下から上に流れる素麺とともに、いつしか時間も巻き戻されて......。ふいに来るこのような奇想は、作者の得意とするところである。
 先ほどの連想と、この奇想が、一冊を支える大きな魅力といっていいだろう。連想と奇想の達人、九螺ささらである。
 そしてラストは、次のような一首に着地する。

 川という漢字を啜(すす)り上げている口中は象形文字の源泉

 もう「川」が、素麺にしか見えなくなっている自分に気づく。川という漢字も、川が吸いこまれてゆく口という漢字も、象形文字だ。
 このようにして、一つの章を味わうごとに、私たちはかつて見たことのない世界を見、不思議な感覚を楽しむことになる。「素麺」の章の歓びを、先回りしてお伝えしてしまったことは申し訳ないが、いわく言いがたい魅力を伝えるには、あまたの言葉を尽くすよりも、サンプルを示したほうがてっとりばやいと思った次第。ごたくだらけのメニュー表よりも、一口の試食が、九螺ささらの世界を伝えるにはふさわしい。そして、安心してください、このような歓びが、まだまだぎっしり本書には詰まっている。その数、七〇。
 映画と演劇の違いを語るときに、よく使われる言い回しに「映画は、たとえばパリを舞台にするなら、パリを映像で表現するものだけど、演劇は必ずしもリアルなセットがなくてもいい。俳優が『パリも肌寒くなってきた』とコートの襟を立てれば、そこはパリになる」というようなのがある。この、演劇的な言葉の喚起力を最大限に用いているのが、九螺ささらの文章ではないかと感じる。言葉の万能感を味わえる、と言ってもいい。たとえば、人の鳥肌から鳥を培養するとか。これはもう演劇でも手に負えない(あるいは、そうとう面倒くさい)のではと思ってしまう。
 デビュー作『神様の住所』も、素晴らしく面白かった。短歌、散文、短歌、というスタイルは本書と同じで、やはり連想の力がすさまじかった。いっぽう、奇想の印象は薄く、どちらかというと「発見」や「言葉への執着」が前面に出ていた一冊ではないかと思う。
 そこにストーリー性を加え、奇想という得意技を武器に、一歩あゆみを進めた。奇想というのは、単に素っ頓狂なことを提示すればいいというものでは、もちろんない。奇想であればあるほど、それを納得させる言葉の力が必要だ。
 九螺ささら第二作は『ゆめのほとり鳥』というタイトルの歌集で、その帯に歌人東直子は、こう書いている。「どうしてこんなことを思いつけるのだろう。」と。つまり奇想への萌芽を感じさせる一冊でもあった。
『神様の住所』から『ゆめのほとり鳥』を経て、『きえもの』へ。次は、どんなレシピで言葉という素材を料理し、味わわせてくれるのか。楽しみでならない。そんな期待を抱かずにはいられない一冊である。

 (たわら・まち 歌人)

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