書評

2019年9月号掲載

最も傷つきやすい心の持ち主が最も辛い地獄を見る

ジョセフ・ノックス『堕落刑事 マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ

杉江松恋

対象書籍名:『堕落刑事 マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ』(新潮文庫)
対象著者:ジョセフ・ノックス著/池田真紀子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-240151-4

img_201909_23_1.jpg

 堕ちていく。
 自分が叩きつけられる、奈落の底を見ながら堕ちていく。
 最大の恐怖とは、自分が今から破滅するとわかっていながら、正気を失えないことだろう。あくまで理性を保ったまま、この世の地獄を見なければならない。それがジョセフ・ノックス『堕落刑事』の主人公が負わされた運命だ。
〈俺〉ことエイダン・ウェイツはイギリス・マンチェスター市警の刑事である。とある理由からパーズ警視の手駒となったエイダンは、若き麻薬王ゼイン・カーヴァーの組織、〈フランチャイズ〉を壊滅させるための潜入捜査を開始する。金を受け取る悪徳警官の仮面を被(かぶ)り、ゼインに罠を仕掛けるのだ。
 作戦が進行中のある日、エイダンは思いがけない人物からの呼び出しを受ける。国会議員のデヴィッド・ロシターだ。彼の十七歳になる娘・イザベルは、精神の均衡を崩して家を出ていた。薬物に手を出しているおそれもあり、現在はゼインの取り巻きたちと行動を共にしているのだという。彼女に接近して安否を確認してもらいたいという議員の依頼を、パーズから受けた任務の妨げになるかもしれないと承知しつつもエイダンは断ることができなかった。
 ただでさえ危険極まりない捜査に、個人の情という厄介な代物が絡まる。自殺未遂の経験者であるイザベルをはじめ、〈フランチャイズ〉の深奥を巡る潜入行で彼が出会った女性たちは、みなどこかに危ないものを抱えていた。作者が巧妙なのは、主人公を施設出身で肉親の情に恵まれなかった人物にした点で、その過去が彼にとってのアキレス腱になる。絶望する女性をエイダンは見捨てられないのだ。そのためのあがきが、彼を逆に苦境へと落しこむことになる。
 原題のSIRENSは、ギリシャ神話に登場するセイレーンから採られたものだろう。ゼインは麻薬の売上金回収を女性たちに任せている。その彼女たちの呼び名なのである。神話のセイレーンは、美しい歌声で惑わせて船を招き寄せ、難破させる。同じようにエイダンも女性たちに向けた情のために針路を誤るのだ。その意味では〈運命の女(ファム・ファタール)〉の構造を持つ作品だが、男から女に加えられる性暴力が背景に描き込まれている点に注目されたい。誰が誰を傷つけ、そのために人生を狂わされることになるのかを作者は見誤ることなく描いている。エイダンの苦悩とは、蔓延する暴力をなすすべなく放置することしかできない、無力な傍観者の良心の疼(うず)きでもあるのだろう。
 全体は六部構成になっており、物語の様相ががらりと変わる第三部以降のプロットの捩じり方が見事である。序盤はゼインに対してエイダンが偽りを押し通そうとする話なのだが、ある事件が起きたことで嘘を吐(つ)かなければならない対象が替わる。そのために彼は完全に安全索を断たれてしまい、絶体絶命の窮地に陥ることになるのだ。エイダンは肉体的な優位のない人物であり、潜入捜査の重圧に負けて自分も薬物に手を出すなど、心も強くない。それゆえ中盤では状況に押しつぶされて逃げるしかなくなるのである。その彼がわずかな反撃に出て、自分ではない他の人間の嘘を暴くために行動を起こしてからは、疾風怒濤の展開となる。ひとたび嘘を吐けば更なる嘘で真を塗り固めるしかなくなる。本書は、その危うさを描いたスリラーなのだ。
 出番の少ない脇役の一人ひとりがはっきりと個性を主張する小説でもある。特に強い印象を残すのは、エイダンの幼なじみであり同じ施設の出身でもある、ザ・バグだ。性の境界を飛び越え、因習を鼻で笑う彼は、エイダンとは対照的にすべての嘘から自由な人物である。訳者あとがきによれば、ノックスは作家デビュー以前に水商売などの職業に就いていたことがあり、夜の街が持つ顔も熟知しているのだという。その頃の人間観察が作者の貴重な財産になっている。
 ゼイン・カーヴァーが単なる悪人ではなく、イザベルのように行き場のない者たちを惹きつけるカリスマとして描かれるように、負の価値観としか呼びようのないものの存在をノックスは作品を通じて描こうとしているように見える。警察官であるエイダンとゼインの間に立場を超えた共感が成立するのも、疎外された者に関心を惹かれるがゆえだろう。本作はシリーズ化されており、続刊も新潮文庫から出るらしい。地獄の中にエイダンはいずれ居場所を見つけるのだろうか。

 (すぎえ・まつこい 書評家)

最新の書評

ページの先頭へ