書評

2019年10月号掲載

『僕の人生には事件が起きない』刊行記念特集

平穏のような不穏

佐藤多佳子

対象書籍名:『僕の人生には事件が起きない』
対象著者:岩井勇気
対象書籍ISBN:978-4-10-352881-4

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 お笑いコンビ『ハライチ』の澤部佑がテレビで大人気なのに比べて相方の自分は......、という不満をぶちまけるバラエティ番組だった。ただならぬ眼光。顔芸なのかガチなのか、岩井勇気のあの怖すぎる顔は、忘れたくても忘れられない。そして、澤部の第一子の出産祝いに贈った、白い布を巻いたミイラのような手作りのオソロシイ人形。悪いことを人形が引き受けてくれるという身代わりのお守りなのだが、女性共演者の鋭い悲鳴が上がった。たまたま見たテレビで、本当にたまたま出会った――圧倒的インパクトの岩井勇気に。
 TBSラジオの深夜帯二十四時から始まる「ハライチのターン!」は、一回目からずっと聴いている。芸人さんの深夜ラジオは昔から好きだが、あの岩井がしゃべるんだなという入口からわくわくして聴いた。本当に、あの岩井がしゃべっていた。思った通りに、いや、思った以上に、ただごとじゃなくて怖くて面白い声と言葉が、電波に乗って軽やかにビシビシと飛んできた。
 自然体で容赦ない。
 ラジオ・パーソナリティとしての岩井勇気に、私が感じるスタンスだ。これは狙ってできるものではないと思う。自分を曲げないというスタンスには、曲げずに通せるという強固な下地が必要になる。
『僕の人生には事件が起きない』は、岩井勇気初のエッセイ集だ。読書にはあまり興味がないとラジオで聴いたが、リズミカルで無駄がなく読みやすい、いい文章だ。
 タイトルの通り、内容は身辺雑記。お笑いや芸能界の話はほぼなく、仕事の合間や休日など、オフシーンでの出来事が綴られていく。もちろん、岩井の身辺であり、目線なので、事件はなくても癖はある。流れる時間は、ゆるやかで、のどかで、とてもスパイシーだ。
 都心のメゾネットタイプの部屋で墓地を眺めながら暮らし、庭の管理でヤバイことになり、組み立て式の家具と死闘を演じ、歯医者の予約を忘れまくり、麻雀からの死の危険にさらされ、段ボールを切り刻んでサイコパスな気分に陥り、困った後輩に呆然とする。普通に暮らしているはずなのに、なんだかヤバくなってしまうところが、ものすごく面白い。独特の視線と感覚にすっと共感できる。お笑いやラジオに興味がない人が読んでも、この本は十分に楽しいと思う。
「ハライチのターン!」のリスナーとしては、馴染みのある話ばかりだった。フリートークで語られた内容がたくさん文章化されている。芸人さんのトークというのは、すごいパワーがある。特に、岩井のフリートークは、毎週、確実に面白く、一時間の番組の中で、私は最も楽しみに聴いている。あの「声」が、どう「文章」になるのか、興味深かった。
 楽しんでいるなあ、日常を、人生を――というのが、一番の印象である。週一度のトークをまとめて文章で読むと、シュールな岩井ワールドは、奇妙に居心地がいいのである。
 岩井は、ラジオでも、いつも好き嫌いをはっきりと口にする。その本気、譲らなさ、強く言うわりに力が抜けている独特の感覚は、実に魅力的だ。私は、好き嫌いの物差しで世界を計る人が好きだ。ただし、上っ面の感情ではなく、自分の生き方から発したリスクの高い好き嫌いの場合だ。否定される時には傷つくようなヤツだ。美学や哲学的な、しっかりとした芯が感じられるものだ。
 日常のふとした瞬間を不思議な角度で切り取りながら、何かを好み、何かを嫌い、軽妙洒脱でありながら、岩井勇気の言葉は断固として譲らない。気持ちがいい。
 岩井がネタを書くハライチの漫才は、テレビで見たことがある。一つのお題について軽く雑談してから、岩井がおかしな取り合わせの言葉を連打し、澤部がパワフルで痛快なリアクションをとる。最初は普通なのに、次第にズレていき、どんどんエスカレートしていく様は本当に面白い。「角刈りのバッハ」「毛穴から窒素」「隙間にナッツ」、岩井勇気のそんな言葉が好きだ。

 (さとう・たかこ 作家)

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