書評
2019年10月号掲載
追悼 池内紀
『ヒトラーの時代』に込められたもの
ドイツ文学者で自由な文筆家だった池内紀さんが亡くなった(2019年8月30日。七十八歳)。
生前、最後の著書となったのは、7月に中公新書で出版された『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』だった。
文学者がヒトラーを、ナチズムを語る。勇気がいったことだろう。それでも、書かずにはいられなかった。ドイツ文学者としては当然のことだろう。
自分が若い頃から親しんだドイツ文学の背後にはいつもナチズムがあった。なぜ愛するドイツがヒトラーを生んだのか。それはゲーテを訳し、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカを訳し、ナチズムの時代にドイツにとどまってひそかな抵抗を続けたケストナーを訳し、また、ギュンター・グラスを訳した池内紀さんにとって、避けて通れなかった課題だった。自分自身、もう一度、ドイツ現代史を見直し、「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」を考えざるを得なかった。
それはドイツ文学者の池内紀さんの誠実な仕事であり、物書きとしての良心の証だった。
本が出てすぐに読んだ。歴史家の書くものと違って、随所に「なぜ」という文学者の心の痛みが感じられた。「晩年」になって、「なぜドイツにナチズムが」という疑問を放置することは、池内さんにはもう出来なかった。
振返ってみれば、池内さんはつねに、この問題を考え続けてきた。
早くには、アウシュヴィッツなどの収容所から奇跡的に生還した思索者、ジャン・アメリーの体験記『罪と罰の彼岸』を翻訳された(最初の版は、1984年に法政大学出版局から。2016年にみすず書房から復刊された)。ナチズムへの関心は、つねに大きく池内さんの心のなかにあったことが分かる。
そもそも、大学での修士論文はウィーンの批評家、ユダヤ人のカール・クラウスだった。終生、マイナーなもの、小さなもの、「二列目」を愛した池内さんは、ドイツ文学のなかでも、日本では忘れられがちだったユダヤ人作家たちに着目した。カフカも、いうまでもなくユダヤ人であり、池内さんの大学時代には決して、いまのようなメジャーな存在ではなかった。
ドイツ文学のなかでは、語られることの少ないユダヤ系の作家に着目すること。ここに池内さんの心優しい反骨があった。
当時の偉いドイツ文学者のなかには、戦時中、ナチス宣伝の書を訳しながら、戦後はそのことに頬かむりして「民主的」な本を訳した学者がいたことへの反発、軽蔑もあっただろう。『ヒトラーの時代』には、戦時中、ナチズムのプロパガンダの本を日本で訳しておきながら、戦後は「民主的文化人として知られたドイツ文学者たち」のことが批判をこめて記されている。
池内紀さんは人柄は穏健飄逸だし、人と争ったり、論争したりすることを好まなかったが、芯は強く、きちんと一本、筋が通っていた。その点では、温厚な硬派だった。
『ヒトラーの時代』を思い切って書いた池内さんの執筆のモチーフには、近年の日本の非寛容な時代状況への危機感があったと思う。
昭和十五年生まれ。少年時代、戦後民主主義の明るい空気を吸って育った世代として、ネット社会になって、匿名で人を攻撃したり、相手への敬意なしに自分の狭い知識をひけらかす若い知識人が増えたことには、正直、うんざりしていたことだろう。
率直にいって、いま「品のない言論」が増大した。平気で他者を悪罵、罵倒する。書き手の「痛み」を理解せずに些末な間違いをあげつらう。説得ある批判とは、他者への敬意、その人がどういう秀れた仕事をしてきたかへの知識があってはじめて成り立つのに、それがない。
『ヒトラーの時代』で、池内さんがいいたかったことのひとつに、「ヒトラーの時代」とは、実は、「私たちの時代」ではないかという危機感があったと思う。
ヒトラーの時代は、ドイツ人にとっては、少なくとも、体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した。ユダヤ人のことは知らないことにすればいい。
確か、チェーホフの『すぐり』に、こんな言葉があった。
「幸福な人間が安心した気持でいられるのは、ただ不幸な人々が黙ってその重荷を担ってくれているからであり、この沈黙なしには、幸福はあり得ないからにすぎないのです」
チェーホフはナチズムを予見していたといえようか。そして、戦後になってドイツ文学を学ぶことになった世代の池内紀さんも、ゲーテやカフカを訳しながら、この言葉を自分の心のなかに刻みつけていた筈だ。歴史学者は、人の心の悲しみにまで言葉を届けることは出来ない。それが出来るのは文学者だけだ。
中公新書で、池内紀さんが『ヒトラーの時代』を出され、それをすぐに読んだ私は、「毎日新聞」の読書面に、「池内さんが、ついに書いた」という興奮を抑えられないままに書評を書いた。
ところが、そのあと、ネットで、細かい間違いが多いと指摘されたため、中公新書編集部が、それに応じなければならなくなり、書評掲載のタイミングを失することになってしまった。無念だった。
いま「波」編集部が、その書評原稿を載せてくれるという。有難い。「毎日新聞」の了解を得たうえで、ここまで書いたことと重複する部分もあるが、以下、拙文を掲載する。細かい間違いのある本かもしれないが、池内さんが書きたかった根幹を紹介しておきたい。
池内さんの「晩年」の名著『記憶の海辺 一つの同時代史』(青土社、2017年)に、池内さんが八十九歳のレニ・リーフェンシュタールをインタビューした時の文章がある。
二日にわたる池内さんの質問に疲れ、ワインに酔った老女を池内さんはおぶって寝室に運んだ。「その人はまるで二十世紀をせおっているように重いのだった」。池内さんもまた充分に二十世紀と格闘した。
*
池内紀さんがついに書いた。ヒトラーとその時代のことを。ドイツ文学者としてゲーテ、カフカ、あるいはケストナーなどを翻訳してきた氏には、すぐれた文学を生んだ国でどうして、想像を絶する残虐行為を繰り返した政治体制が生まれてしまったのか、は避けて通れない難問だった筈だ。
実際、カフカの小説を全訳し、さらに評伝を書いている時、カフカが愛した妹たちや恋人が強制収容所で死んだことを、かたときも忘れなかった、という。
ナチスは弱小政党として登場した。それがまたたくまに国民の支持を得て政権につき、ついにはヒトラーは独裁者となった。どうしてそんなことが可能だったのか。
当初、ナチスの政策は国民の支持を得るものだったという。第一次世界大戦後、極度のインフレに悩んでいた経済を建て直した。厖大な失業者の数を減らしていった。混乱した社会に秩序を与えた。
それまで金持ちしか持てなかった自動車を国民のものにするために、低価格のフォルクスワーゲン(国民車)を開発、生産させた。同時にヒトラーの発案により自動車専用道路、アウトバーンを建設していった。公共事業は雇用を生み出した。
こうしてナチスは着実に国民の支持を得ていった。さらに池内さんは、ナチスの「いい政策」として、これまであまり語られてこなかった「歓喜力行(かんきりきこう)」を紹介する。
ドイツ語で「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」(喜びを通して力を)。当時、日本で「歓喜力行」と訳した。何かというと、労働者の休暇を充実させる政策。とりわけ、旅行に力を入れた。安い費用で労働者が山や海に旅行出来る。さらには客船で憧れの船旅が出来る。
これが国民に受けた。「ヒトラーに対して警戒の目を向けていた人々までもが、雪崩をうつようにしてナチス讃美に変わっていく」。
ナチズムも当初は国民に「明るい時代」を演出していった。タバコが癌のもとになるとして癌撲滅のキャンペーンを行った。ヒトラーはタバコを吸わなかった。現在のエコロジーにも早くから目を向けた。
こうした面だけを見てゆくと、ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドの言葉、「もしこの独裁者が政権四年目ぐらいに死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物の一人として後世に残っただろう」も納得出来る。
だが、無論、ヒトラーは死ななかった。一九三三年に政権を取るや、独裁者として君臨していく。ユダヤ人への苛酷な弾圧が始まる。
1938年にユダヤ人の出版社によって「亡命ハンドブック」という亡命の手引書が出版された話も興味深い。追いつめられたユダヤ人の必死の自衛本だったが、編集に関わった女性はアウシュヴィッツに送られた。
ヒトラー体制を支えたのはゲシュタポ、強制収容所、そして拷問だという。池内さんは数々の拷問に耐え、奇跡的にアウシュヴィッツから生還した思索者ジャン・アメリーの収容所体験記『罪と罰の彼岸』という感動的な本を翻訳していることも忘れてはならない。
最後に「カール氏」という言葉が登場する。1960年代に人気を博した演劇の主人公。ナチスの時代の善良な小市民。しかし彼はユダヤ人の迫害、ナチスの無法に見て見ぬふりをする。自分の小さな幸福だけを守る。ナチズムを支えたのは、国民の大多数の「カール氏」ではなかったか。その指摘は、現代社会に通じる重さがある。
(かわもと・さぶろう 評論家)