書評・エッセイ

2019年10月号掲載

私有されない希望

今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書)

藤原辰史

対象書籍名:『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書)
対象著者:今福龍太
対象書籍ISBN:978-4-10-603846-4

 宮沢賢治は、できるだけ遠いところから眺めていたい、と思ってきた。彼の自己犠牲や純粋志向は憧れるけれどちょっとついていけない、と感じていた。しかも、彼の思想は、私の研究を内部から貫き続けてきた。ドイツや日本などの国を戦争へと導く土や食の思想と宮沢賢治は火花を散らすほど接近していく。そして、汲めども尽きぬ彼の言葉の泉から、戦後の引用者たちは公然あるいは隠然と芳醇な水を盗み、干上がった己の思想の土壌にその水を撒いている身振りが、やはり上記の歴史的条件ゆえに滑稽に映っていた。ほかならぬ私が彼の言葉を講義で取り上げるたびに、彼にすがっている自分を発見しては驚いていた。
 しかし、本書は、そんな私の宮沢賢治への凝り固まった警戒心を、熱のこもった文章でじんわりと溶かしつつある。本書を咀嚼することは、彼の作品が張り巡らす結界に自分があまりにも教条的に反応してきたかもしれない、と再考を促すものであった。
 海、動物、風、石、デクノボー、心象スケッチ、北(という方角)、未完(あるいは植民地)、ユートピア、死という十の言葉を頼りに、本書は、井上有一、ヴァルター・ベンヤミン、フランツ・カフカ、石牟礼道子、ジョージ・オーウェル、ウィリアム・モリス、ロジェ・カイヨワ、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、オクタビオ・パスなどの作品に大胆に道草をしながら、賢治の書く「希望」を「私有」から解放するべく冒険を試みた。化学肥料と品種改良の農業への浸透の時代に近代農学を学んでいた賢治が、「近代」や「市場」と、本書で言及されるほど決然と対峙できていたのかは議論の余地があるだろうが、ただ、本書が、賢治に警戒心が解けない人間の心を揺るがせる発見に満ちていることは、何度強調してもしすぎることはないと思う。
 仕掛けに満ちた文章を読んでいると、どの章も、ツルハシを持って険しい山に行き鉱脈を発見するような喜びを追体験できる。本書の中でとくに私をそんな気持ちにさせたのはⅣ章「天と内臓をむすぶもの――〈石〉について」であった。シュールレアリストばりの意外な組み合わせを発見する、著者の興奮した息遣いが聞こえてくるようである。
 賢治は「石っこ賢さん」と呼ばれるほど石が好きだった、という。晩年は石灰石粉の販売に精を出すことはよく知られているし、何より作品に頻繁に登場する。童話「十力の金剛石」にある「りんだうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだ)かれた天河石で組み上がり、その葉はなめらかな硅孔雀石(クリソコラ)で出来てゐました。黄色な草穂はかゞやく猫睛石(キャッツアイ)......」という調子の文章を読むと、ああ賢治らしいと多くの読者は思うに違いない。しかも、「孤独と風童」という詩では「白いみかげの胃」というフレーズがあったり、「山火」という詩では鉱石が登場する文脈で「破けた肺」という言葉が突然入ってきたり、「春と修羅」には「れいろうの天の海には」「聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ」という石と密接に関係する表現もあったり。著者は、めまいがするような表現者たちのリレーの中で、花、海、空、そして内臓を賢治の作品の中で統合していく。それを可能にするものこそ石である。「石どもは年月の塊ぞ。年月というものは死なずに、ほれ、道子のそばで息をしとる」と父に言われ「寄る辺ない」気持ちになった石牟礼道子。「物のはじめの姿やかくれた原型」、例えば「四肢」「生身の筋肉」を石にみたロジェ・カイヨワ。石に人間の特性を与えて仕事をする石工の言葉を詩に用いたオクタビオ・パス。そして、再び、斜長石の医者が黒雲母の患者に「お気の毒ですが一万年は持ちません」と言い放つ賢治の作品に戻り、世界文学史に位置づけ直す。
 宇宙の秘密を静かに隠し持つ石に耳をすまし、空を眺め、海に入り、そこにわが内なる器官を感じる。すると、区切りがなくなり、輪郭がぼやけ、誰かのもの、という所有感覚からだんだんと離れる。著者のいう「デクノボー」あるいは「愚者」は、現世の計算勘定に疎いだけ、そして、未完成であることにうしろめたさがないだけで、石や花や空に内臓を接続する技に長けている。近代的人間概念から一旦離れ、人間を「余りに重苦しい重力の法則」から解き放ち、誰のものでもない非人称の「希望」を見いだすというリスクに満ちた冒険は、「デクノボー」という自己規定が冒険者に徹底される限りにおいて、豊かな鉱脈に達するかもしれない。そう本書は教えてくれる。

 (ふじはら・たつし 歴史学者)

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