書評・エッセイ

2019年11月号掲載

父と母へ。最後にして最大のラブレター

信友直子『ぼけますから、よろしくお願いします。』

大島新

対象書籍名:『ぼけますから、よろしくお願いします。』
対象著者:信友直子
対象書籍ISBN:978-4-10-352941-5

 ある事象を長期にわたって取材した結果を表現物として発表する手段に、映像のドキュメンタリーと活字によるノンフィクションがある。両者の大きな違いは、カメラがあるか、ないか、だ。映像のドキュメンタリーは、カメラが回っていなければ「なかったこと」と同じである。一方、活字の場合、その瞬間の直接的な記録がなくても、取材メモや記憶によって再現することができる。
 どちらがその事象を、受け手により深いものとして伝えられるのか。カメラの制約がないぶん、活字の方がより細やかに、取材した内容を伝えることができるだろう。だが映像が持っている情報量もあなどれない。例えば取材対象者の表情。「目は口ほどに物を言う」の諺にもある通り、ある人のインタビューを映像として使用しても、活字にしても内容は同じだが、それがどんな表情によって発せられるのかで、受け手の印象はまったく異なる。映像業界に身を置く者としては、優れた活字ノンフィクションの存在を重々承知の上で、「映像も負けてないよ」と言いたいところだ。さて、同じ映像業界に生きる信友直子は、自ら作った映画と同名タイトルの本を、どんな風に仕立て上げたのか。
 一読後、思ったのは「まいりました」だ。信友は、普段の仕事とは異なるジャンルでの表現に挑み、映像の持つ情報量の豊かさの壁を、まったく違う形で打ち破った。この本は、タイトルこそ同じだが、いわゆる「映画のノベライズ」では断じてない。その方法論の違いを中心に、書籍版『ぼけますから、よろしくお願いします。』を読み解いていきたい。
 映像ドキュメンタリーを活字化した際に、宣伝の惹句などでよく使われるのは「映像には収めきれなかったエピソードがふんだんに入った......」という言葉だ。確かに、この本にもそういう場面はたくさんあるし、そのことによって内容が深まってもいる。だが私が一番に感じたのは、信友の「語り口」の違いである。映画でも一人称のナレーションで信友自身の心情が語られる場面はあるが、その分量は極めて少なく、表現も抑制的だ。これは「できるだけ"撮れているもの"で勝負したい」という、信友の映像作家としての矜持による選択だろう。
 だが書籍ではその禁を破り、物語が全面的に彼女の心情吐露によって進行していく。それでいて嫌みになっていないのは、取材対象となったご両親への果てしない愛とユーモアのおかげだ。
 例えば認知症と初めて診断された母を残して、信友が東京に戻る日。母は娘を広島空港行きのバス停まで送ってくれて、手を振って別れる。これは映画にもあるシーンなのだが、書籍で読んで初めて知った信友の母への思いに触れ、私は泣けて仕方がなかった。映画ではすっと通り過ごしていた何気ない場面だったのにもかかわらず、だ。
 ユーモア、という点では、こんな場面がある。デイサービスの施設に初めて連れて行った際、母がかしこまって自己紹介をするくだりだ。
「『わたくしは、信友文子でございます』/『わたくし』だって? 『ございます』だって? お母さん、何を気取っとるんね?/おほほほ、と口に手を当てておしとやかそうに笑っている母に、私は思わずツッコミを入れたくなりました。(中略)これが認知症になってからの母のよくないところなんですが、自分に自信がなくなっているので、初めて会う人にばかにされたくないという意識が働くのか、必要以上にお上品ぶって、マウンティングする気満々なんです」
 信友さん、この場面も映画にあったけど、こんなことを思っていたなんて聞いてないよ。この場面は、断然本の方が魅力的だわ。
 信友の愛とユーモアは、取材対象となったご両親から受け継がれ、育まれたものだ。この本では、そのことがよくわかるお二人の人柄が、娘の筆によって「これでもか」と語られる。愛し抜いた両親がともに90歳を過ぎ、先が決して長くはないと知った娘が、父と母のことを世に残しておきたいと願って書いた記録であり、最後にして最大のラブレターでもある。
 そして愛とユーモアに貫かれた信友家の長い記録は、終盤に信友が悩んだ末に明かした彼女の"日記"によってクライマックスを迎える。そこに記されているのは、いずれ訪れる肉親の死についての、哲学的とも呼べる考察だ。こんな表現は、映像には絶対にできない。
 優れたドキュメンタリー映像作家である信友直子は、この本の発表をもって、優れたノンフィクション作家ともなったのだ。

 (おおしま・あらた ドキュメンタリー映像作家)

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