書評

2019年11月号掲載

忘れられていた“山水郷”日本の未来を引き受ける

井上岳一『日本列島回復論 この国で生き続けるために』(新潮選書)

藻谷浩介

対象書籍名:『日本列島回復論 この国で生き続けるために』(新潮選書)
対象著者:井上岳一
対象書籍ISBN:978-4-10-603847-1

 俄然注目されるようになったラグビーというゲームには、世の現実というものが詰まっている。
 ボールを持った選手はタックルされ、のしかかられる。うっかりパスを受け取ってしまったが最後、文字通り袋叩きに遭うのだ。それでも勇気をもって闘う選手たちの姿は、この世で何事かを前に進めようと苦闘する人たちの姿と、ぴったり重なって見える。
 日本の地方、なかんずく過疎地の持つ可能性を、新たな論として世に問う作業も、まるでラグビーだ。さまざまな論者がパスをつないで切り込みを図って来たが、なにぶん敵は、明治維新から平成までの間に固まりに固まった日本の大都市信仰、中央集権信仰である。ディフェンスラインはなかなか破れない。掲題書の中でも紹介いただいた『里山資本主義』(2013年、角川oneテーマ21)の共著者の一人として、評者(藻谷)はそのことを、特に痛切に感じてきた。というのも同書は、「カウンターカルチャーの宣言書」という以上の位置づけを得ることはなかった。同書の最終総括の章に示した見取り図は、結論だけの略述で、先入観を壊すだけの説得力を備えていなかったのだ。
 その後も藤山浩著『田園回帰1%戦略』、金丸弘美著『里山産業論』など、さらにもっと実のある本によってパスはつながれたのであるが、なかなかゴールラインは割れない。だがそんな中、ついに、掲題書『日本列島回復論』が出て来た。これでようやく、ラインの向こうにボールが突き刺さったと言えるのではないかと、評者は深く感慨を抱いているのである。
『日本列島回復論』では、なぜ過疎地(筆者のいう「山水郷(さんすいきょう)」)にこそ日本の未来があるのか、その立論の全体像が重層的に語られている。
 第一章、第二章は、「経済成長」が世を救うと誤解したばかりに日本がどのような状況になってしまったのかを、見事に切り出した。これだけで一冊の新書になる中身である。とりわけ、「利潤は自由競争を阻害し独占を実現してこそ得られるものであり、利潤を目指す資本主義は、必然的に格差と分断を作り出す」という洞察は、最も鋭い現代社会批判として胸に刺さる。
 だが第三章以下で話が「山水郷」に移っていくのはなぜか、最初の二章を読んだ直後にはよく見えないかもしれない。そこで読者諸賢にはぜひ、第三章、第四章にある通時的分析、すなわち縄文時代から高度成長期までの山水郷の意義の変化を読了したのちに、その後に日本がどのような状況になったのか、もう一度第一章から読み返して頂きたいのである。そうすれば、なぜ日本の今の困難があるのか、何を忘れたからこうなってしまったのか、改めてすっきり頭に入るだろう。山水郷はかつては「天賦のベーシックインカム」であり、その後は「天賦のキャピタル」であった。石油文明と共にその価値を完全にかなぐり捨ててしまったことの、どこに間違いがあったのか、ゆっくり考え直してみるべきなのである。
 とはいえ第五章、第六章にある、今の山水郷からの最新動向の報告と、もっと多くの若者が大都市から山水郷へと回帰する未来への提言は、都会人の皆様の胸にどの程度まで落ちるだろうか。同じ現実を日々全国で見聞きしている評者としては、いちいち線を引いて頷くばかりの中身だったのだが、過疎地の現場を知らないほとんどの読者にとっては、「本当かな?」という疑いの残る話であり続けるのかもしれない。だがそうした人たちに評者は問いたい。「あなたは何を引き受けて生きているのですか」と。
「引き受けて生きる」。これは掲題書を貫くキーワードであり、すべての都会人に生き方を問いかけ直す言葉である。都会でその他大勢の消費者の一人として暮らすことをやめ、山水郷を引き受けて生き始めた若者たち。彼らが選んだ生き方こそ、日本中のすべての既存大企業や、都会のすべての超高層建築が、耐用年数を迎えた未来にも着実に残る生き方だ。本当に未来に残るものは何で、そこにかかわる生き方とはどのようなものなのか。それを考え始めてしまったら、心の中の大都市信仰、中央集権信仰は、ゆっくりと崩れ落ち始めるしかない。そう、「引き受けない生き方」なんて、あまりにつまらないのだ。
 ボールをつないで、つないで、どうやっても前に進めない中、一閃神風のように抜け出した著者が、ようやく決定的なトライを決めた。掲題書の刊行を、ラグビー日本代表の躍進以上に喜びたい。

 (もたに・こうすけ 日本総合研究所調査部主席研究員)

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