書評

2019年12月号掲載

玉川上水の残留思念

清水裕貴『ここは夜の水のほとり』

辛酸なめ子

対象書籍名:『ここは夜の水のほとり』
対象著者:清水裕貴
対象書籍ISBN:978-4-10-352991-0

 今もなお鬱蒼(うっそう)と茂る玉川上水(たまがわじょうすい)の森。清水裕貴さんの『ここは夜の水のほとり』は、玉川上水を舞台にした、5篇の連作短編集です。テーマは「芸術」そして「死」という哲学的なものですが、美大出身の作者の、脳内で映像化できそうな表現力で物語にどんどん引き込まれてゆきます。玉川上水、美大、というキーワードで連想するのは、不肖(ふしょう)私の母校でもある武蔵野美術大学。玉川上水の遊歩道を鷹(たか)の台(だい)駅から20分くらい歩いてやっと大学に到着します。ハイキングコースと言ってしまえば素敵な感じですが、照明もほとんどなく夕方以降は真っ暗になり、肝試し級の恐怖感が。時々変質者が出現したり、水場なので霊的な気配も漂います。私が通っていた当時は、玉川上水沿いに顔が太宰治(だざいおさむ)の人面犬が出ると恐れられていました。武蔵美にも年に一回お坊さんがお祓(はら)いに来ていたり、ある校舎では制作活動で悩んで自殺した学生の噂話が言い伝えられていました。他の美大でも似たような話を聞いたので、そもそも美大には怪談がつきものなのかもしれません。芸術分野の学生は感受性が強いので、見えないものの気配を察知しがちです。作者の目のつけどころはさすがです。読んでいると、死の気配にゾクゾクしつつ、美術系なら涙なくしては読めないようなリアルな予備校や美大の記述も出てきます。
 まず最初に収録された作品「金色の小部屋」の出だしの一節に圧倒されました。「目を覚ますと、部屋が金色に燃えていた。ベッドの前の鏡が朝陽を反射して、部屋中にゆらゆらと炎のような光を描いているのだ」目の前に情景が浮かぶようです。作者の清水裕貴氏の文章力には、デッサンや絵のスキルも表れているような......。情景描写だけでなく、美大受験のための美術予備校の生徒を冷静に観察する文章にも、作者の卓越した画力が表れているようです。「金色の小部屋」には美術予備校の情景が詳細に描かれていました。
「彼はほとんど手癖だけで描いており、デッサンはめちゃくちゃだった。ひょろ長い腕は、画布を袈裟斬りにするように勢い良く機敏に動いて、堪え性がなく、形をじっくり追うということをしなかった」
 たしかに美術予備校でこういう勢いだけはある生徒がいた記憶が......。勢い=才能とは限らず、階段を上るように地道に基礎的な画力を高めていかなければなりません。
「受験生に求められるのは、まず実直に空間を描き出すことだ」という端的な真理に、今さらながら気付きを与えられました。
 また「ここは夜の水のほとり」で、美大受験を志したばかりの遥(はるか)がデッサンの授業でフリーズして何も描けないシーンも印象的でした。あき先生が「もし迷ってるなら、目に見える風景を、升目で区切ってみたらいいよ。これを使って」と、升目が印刷された「透明のプラスチック板」を手渡します。「なるほど、いけそうです」とコツをつかんだ遥の絵は講評会で、「良くもないが悪くもない、真ん中より少し下くらいのランクに配置」され、はじめてにしてはかなり良い成績を取ります。たいていは初心者の作品は一番はじに置かれてボロクソに言われがちなのでかなりの快挙。小説の中の遥に思わず嫉妬しかけました。遥の、周りのうまい子の技術やものの見方をミックスして取り入れる、という方法は、もし美大受験を志す読者がいたら参考になるかもしれません。
 美大を出た人のその後の制作活動ぶりにも触れられていて、美大出身者は身につまされることでしょう。絵を描かなくなったあき先生は「絵を見せることは、自分の見ているものを人に見せるということ。それは、頭の中をさらけ出すことに等しい。そんな恐ろしいことを、どうして平気で出来ていたんだろう」と述懐。そのあき先生を慕っていた宇一(ういち)は銀座で個展を開催します。「最後の肖像」には、森で殺した動物の網膜を撮影した写真展という不気味だけれど好奇心を刺激する展覧会が出てきたり、読みながらギャラリー巡りをしているような疑似感が。美大ライフ、怪談、美術展、そして玉川上水の自然、と様々な要素を楽しめる連作です。作者の活躍によって後輩の美大生の将来の進路の可能性もまた広がるかもしれません。数十年前の卒業生としては、鷹の台周辺の居酒屋で騒いだり小汚い友人のアパートでダラダラしたり、ダウナーな美大の思い出を、幻想的に美化してくださってありがたい気持ちでいっぱいです。

 (しんさん・なめこ エッセイスト)

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