書評・エッセイ

2020年1月号掲載

クリスタルが濁りだすとき

古市憲寿『奈落』

與那覇潤

対象書籍名:『奈落』
対象著者:古市憲寿
対象書籍ISBN:978-4-10-352692-6

 古市憲寿さんは「軽さ」を演じてきた人だと思う。
 彼はぼくより六つくらい年下で、学者としてメディアで発言した期間が少しだけ重なっている。『絶望の国の幸福な若者たち』(二〇一一年)以来、何冊か出た初期のシリーズはページの下部に脚注の欄があり、まじめな出典(参考文献)の紹介と古市さんのギャグとがごちゃまぜに記されていた。「ふざけた書き手が出てきた」と本気で怒った研究者も多かったけど、一般書だと主張の典拠まで表記する余裕が普通は取れないなか、こういう茶化した形でしっかりスペースを手に入れるあたりが、なんとも評価に困る人だった。
 もっともそのころ、ぼくは大学の准教授をしていて、さすがに授業では「学者が論文につける注とは「本文に対するツッコミ」のことではありません」と教えていた。ツッコミ型の注の例として朗読させるのは『なんとなく、クリスタル』(一九八〇年)。主人公のファッションモデルが「レイン・ブーツ」と言う箇所の注で、著者の田中康夫氏が「長ぐつのことですよ、長ぐつ!!」と嗤ったりする、あの小説だ。
 そんな経験があるせいか、古市さんが「なんとなく、2.0」のような『平成くん、さようなら』(二〇一八年)で文学賞の候補になっても、あまり驚かなかった。近未来に流行しそうな富裕層の風俗描写をちりばめた同作に脚注はないけど、テレビで目にする著者のキャラクター自体がツッコミに――「こーいうのが格好いいって思ってる人、いそうだよね」という冷めた目線を伝える媒体になっている。古市さんらしいな。彼が小説を書くならこうだろうな、と思った。
 びっくりしたのは、その後だった。
 もういちど同じ賞の候補になった『百の夜は跳ねて』(二〇一九年)は、本人の暮らしはまったくクリスタルでなく、むしろ仕事でクリスタルなタワーマンションの窓ガラスを拭き続ける青年が主人公。ただしデジタル機器の操作は得意で、「タワマンに住んでる人が言いそう」な価値観自体、実はいくらでもネットからコピペできることに気づいている。
 すべてが透明になりきった世界は、どこまで行っても「他に替えられないもの」が見つからない地獄かもしれない。先輩の墜落死がトラウマになった青年は、シャンパングラスの乾杯で似た音が出るのを怖れる。重力を無化するようだった古市さんの「軽さ」は、作品を救わなくなっている。
 そして今回の『奈落』は、ステージから落下して全身不随になった歌手の物語だ。意識は戻っても意思表示ができない彼女の視線で、『平成くん、さようなら』ではSF化されて煌びやかに回顧された同時代史が、裏側から辿りなおされる。ネタバレはしないけど、『百の夜は跳ねて』の主題とも関連した小道具が、より禍々しく使われるとだけ書いておく。
 彼女の境遇をこれ以上紹介したら、たぶん引いちゃって手にとる人が減るだろう。なのに不思議と読んでいて殺伐としないのは、定期的に主人公(香織)の父・母・姉・元彼へと視点が切り替わり、五人のあいだでのあまりの認識の不一致が、どこか可笑しさをそそるからだ。ある人の目線では大真面目な執念が、隣人の視点からはジョークにしかなっていない。そうした「視線のずれ」は、コメディの基本である。
 ふと思う。見る人が古市さんの言動や作品に感じてきた「軽さ」は、彼個人が軽い人だから出てきたものなんだろうか。そうではなく本作の笑いのような、何か集合的な相互作用の結果として、軽さは生じていたんじゃないか。
 ぼくの世代までの学者や物書きには、知的階級たるもの重々しくあらねばならず、「軽いやつと思われたら負けだ」とする暗黙の規範がある。古市さんはそうした老人たちを苛立たせてきたけど、ひょっとしたら彼より下の世代には「重たがられたらイタい」みたいな正反対の抑圧があって、それが無意識に「軽さ」の偶像を求めたのかもしれない。
『奈落』の香織は、女子高生のときスカウトされてデビューし、若者のカリスマになりかけた存在だ。事故の結果、彼女は当時の意識のまま、肉体だけが老いてゆく。『AKIRA』(映画は一九八八年)の「年老いた子供たち」のように、こうした精神と身体のアンバランスは、しばしば戦後日本の戯画として描かれてきた。そんな「歴史が重たかった」時代といちばん無縁に見えた古市さんが、大好きな平成歌謡史を素材にこの作品を書いたことを、ぼくは興味深く思う。
 一見軽やかな古市さんのような人にも、見えない重力がずっと働いているらしいことは、本作でわかった気がする。しかしなぜ私たちの社会では、クリスタルは濁らずにはいられないのだろう。それだけが、ぼくにはいまもわからない。

 (よなは・じゅん 歴史学者)

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