書評
2020年1月号掲載
不透明な出口に向かって
モーシン・ハミッド『西への出口』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『西への出口』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:モーシン・ハミッド/藤井光訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590162-2
小説は好むと好まざるとにかかわらず、作品が書かれる時代を映し出す。それぞれの時代を特徴づける大きな問いがあるとすれば、現在であれば何になるだろう? 格差、移民・難民、環境といった言葉が思い浮かぶ。そうした主題に意識的に向きあう作家もいれば、そうでない作家もいる。モーシン・ハミッドは明らかに後者だろう。
ハミッドはパキスタンに生まれ、アメリカの名門大学を卒業し、世界的なコンサルティング会社に勤務した。グローバル・エリートと呼ばれておかしくない彼が、移民や難民という「持たざる者」を小説の主題として選択するとき、それはどのような小説になるのだろうか。
内戦下にあるとおぼしき国で、サイードとナディアという若い男女が出会う。サイードはナディアに強く惹きつけられる。武装勢力が街に迫り、銃撃戦が繰り広げられる危険な日々のなか、サイードは苦労してひとり暮らしのナディアのアパートを訪れ、ふたりは親密になっていく。
しかし、戦闘が激化し、夜間外出禁止令が出される。停電も生じ、携帯電話もつながらなくなり、たがいに会うことも連絡を取りあうことすら困難になってくる。経済は混乱をきたし、ふたりはともに職を失う。さらにはサイードの母が流れ弾に当たって命を落とす。事態はとめどなく悪化するばかりだ。
多くの人々がそうしているように、サイードとナディアもまた、武装勢力に支配された街からの脱出を決意する。そのためにふたりは「代理人」と呼ばれる人物にお金を払う。すると、男はふたりに「黒い扉」を指し示す......。
ふたりが暮らす国や武装勢力の名もナディアに黒いローブを着させている宗教の名も作中では明示されないものの、この小説は、内戦によって人々がどのようにして難民と化していくかをリアリズムの手法で描いている......そう思って読んでいると思わぬ肩すかしをくらう。なんと「黒い扉」を通り抜けるだけで(!)、ふたりは故国を離れ、ミコノス島にたどり着いているのである。ほとんど瞬間移動だ。
島の難民キャンプで数週間過ごしたのち、ふたりは新しい「扉」を通り、今度はロンドンに到着する。そのロンドンはわれわれの知る現実のロンドンとはちがい、多くの地区を大量の移民や難民に占領されており、彼らを排斥しようとする公権力や市民とのあいだに戦闘が生じている。
その後サイードとナディアはふたたび「扉」を通り、アメリカ西海岸サンフランシスコ近くの移民や難民によって作られた「マリン」という新しい都市に移り住むのだが、そこでふたりの関係に大きな変化が生じることになる。
ハミッドが描く世界は、われわれが暮らす世界と似ているが微妙にちがう。それは、映像を二倍速や四倍速で見る感じで、移民や難民の移動を加速させた世界の姿なのかもしれない。多くを奪われた移民や難民がなおも所有しているものが二つある。一つはもちろん彼ら自身の身体だが、もう一つが携帯電話である(僕がフランスで知りあった難民はパスポートもお金もなく文字通り身ひとつだったが、それでも携帯電話を持っていた)。この小説でも携帯は移民や難民にとって命綱のような役割をしている。だが、空にはつねにドローンが飛び、携帯の通話やネット上のやりとりは特殊なネットワークによって監視されている。もしかしたら、これは僕たちを待ち受けている世界などではなく、僕たちの世界そのものではないのか。
ハミッドは移民や難民にとっては忘れえぬ苛酷な体験であるにちがいない移動そのものを描かない――それはこの小説の弱点ではないか? 『ドラえもん』の「どこでもドア」のような「扉」などというアイテムで、移民や難民の体験を語ってよいのだろうか、と。
しかし、それが他者の言葉や経験を搾取してはならないという作家の強い倫理観ゆえの選択だとしたら? 僕たちが出会う移民や難民は、つねにすでに移動とその困難を経験したあとの人たちである。その体験は彼らだけのものだ。何があったのか聞くことはできるが、いま目の前にいるこの人たちとどう生きるかを考えることが大切なのだ。
黒いローブで身を隠しながらもナディアが知的にも性的にも自由であり続けるのに、サイードは次第に信心深く保守的になっていく。この対照は実にリアルだ。ところが、ふたりはずっと寝食をともにし、機会は幾度となくあったのに、セックスするには至らない。でもなぜ?
すぐれた小説がそうであるように、『西への出口』は読者を迷わせはしても、わかりやすい出口は決して与えない。