書評・エッセイ

2020年2月号掲載

追悼 坪内祐三さん

ゆっくりと別れたかったよ。

重松清

評論家の坪内祐三さんが一月十三日に亡くなった。享年六十一。
本誌にも一九九七年の初登場以来、数々の原稿を寄せて頂いた。

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 訃報は一月十四日の朝にもたらされた。嘘だろ、と思った。一月十五日の夜になったいまでも、ほんとうはまだ少し思っている。けれど、それは動かしようのない事実として、ここにある。どうしようもないんだな。どうすることもできないんだな。悲しい、という以前に、悔しい。だが、誰よりも悔しいのは坪内祐三さんご自身のはずだから......いや、あまりにも急な逝去だったものだから、あんがい坪内さんもきょとんとした顔で「え? オレ死んじゃったの?」と自分を指差していたりして......。
 申し訳ない。不謹慎きわまりないことを書いてしまった。叱ってもらいたい。他の誰でもない、坪内さんご本人に。
 だが、坪内さんは叱らないだろう。まあシゲならしかたないか、と苦笑して無礼を受け流してくれそうな気がする。五つ年下の僕のことをふだんは「さん」付けで呼ぶ、折り目正しい坪内さんだが、酒が入って上機嫌なときには「シゲ」になる(ついでに僕も酔うと「ツボちゃん」と呼ぶ。まったくもって無礼な後輩なのだ)。そんなふうに僕は十数年にわたって付き合ってもらってきた。坪内さんにとっては晩年の日々――その言葉をつかわざるをえないのが、やっぱり悲しくて、悔しいよ、ツボちゃん。
 坪内さんとは、じつは仕事上の接点はほとんどなかった。代わりに、神保町、新宿、そして銀座の酒場で、さまざまなことを教わった。そもそも、いま僕が常連ヅラをしているお店の大半は、最初に坪内さんに連れて行ってもらってご縁ができたのだ。
 酒場のカウンターでなにを話したのか。いまあらためて振り返ってみると、たいしたことは話さなかったんだなあ、としみじみ噛みしめる。むろんそれは、坪内さんが僕のレベルに合わせたがゆえ、である。謙遜ではない。自嘲とも違う。酒場でのツボ&シゲの様子は、坪内さんが主演したドキュメンタリー映画『酒中日記』をぜひご覧いただきたい。田舎者のシゲのヘロヘロな酔いっぷりに都会派のツボが辟易している感じが、じつによくわかるから。
 それでも、坪内さんから酒場でうかがった話の中で忘れがたいものはいくつもある。その中から一つ――。
 坪内さんは周知のとおり博覧強記の人だった。だが、決してデータベース的に「正確にすべてを網羅する」ことのみに拘泥してはいなかった。むしろ著作を再読してみると、自らの記憶違いに気づいたり、忘れていたものを思いだしたり......という記述が多いことに驚かされる。
 揺れて、動いて、なにかが思いがけず顔を出す、あるいは逆に、取り出せるはずのなにかが姿を消してしまう。
「それでいい」――いつだったか酒場で言われたのだ。僕が小賢しくも、坪内さんの記憶違いを正したときのことだ。坪内さんは自分の誤りをすぐに認めつつも「でも、忘れるのも大事なんだよね」と言った。「勘違いとか、思い違いとか、そういうのって、消さないほうがいいんだよ」
 僕はその一言に、生意気を言わせてもらえば、坪内祐三の批評のキモを垣間見た気がしたのだ。
 デジタルデータのように劣化しない正しさだけでなく、記憶がだんだん薄れていく、その薄れ具合にこそ、ひとの営みとしての文学が、美術が、演劇が、さらには街が、ある。坪内さんはそれを生涯かけて追ったのではないか。記憶が薄れ、さらには取り違えも起きてしまうことを嘆き/怒りつつも、かつて確かにあったものを保ちつづけられないところに、人間の弱さ/面白さ/強さを見いだす――「まさに雑誌のように」と言ったら、ツボちゃん、酒場のカウンターで喜んでくれそうな気がするんだけどな。
 だから、ほんとうは坪内さんとは、ゆっくりと別れたかった。お互いに歳を取って、体にガタが来て、酒場通いの間が空いて、「最近シゲはどうしてる?」「坪内さんは元気?」なんてお店の人に近況を訊きながら、たまに会うと「あんなことありましたよね」「あったっけ?」なんて言いながら、お互いに遠ざかりつつ、薄れつつ、フェイドアウトしたすえのサヨナラでありたかった。
 それができなかった。
 早いよ。急だよ。坪内さんの姿が、鮮やかすぎる。
 だから最後はまた、無礼な田舎者の後輩に戻るね。
 ツボちゃんは、『波』で追悼文を書くオレを見て、なんて言うんだろうな。だって昔、ツボちゃんは『波』について、こう書いていた。〈ある時期までの『波』は追悼も充実していた〉――〈ある時期まで〉だってさ。厳しいね。現編集長のKさん、困っちゃうよね。オレも困ってる。でも、一所懸命書いた。できれば三十年後に書きたかった原稿を、いま書いたよ。ツボちゃん、感想、教えて。

 (しげまつ・きよし 作家)

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