書評

2020年2月号掲載

言葉があるが故の哀しみ

シーグリッド・ヌーネス『友だち』(新潮クレスト・ブックス)

江國香織

対象書籍名:『友だち』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:シーグリッド・ヌーネス/村松潔訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590163-9

 これはある女性作家の回想という形をとった小説で、だから他人の内面を窃視および散策するような、スリリングな読書ができる。それがあまりにも心地よく、読む悦楽に満ち、過去であるが故に安心なので、私は途中から、これが小説ではなく、ほんとうの回想録ならいいのにとほとんど願っていた。が、その願いはもちろん唐突に裏切られる。これは、書くことと読むことに内在する何か、について語る小説でもあるのだ(「だれもが安心できることを最優先にしたら、人生のすばらしいことはなにひとつ起こらないだろう――どんな名作が創造されることも、偉大な発見がなされることも、そういうものを想像することさえできないだろう」)。
 主人公である「わたし」は、自殺してしまった大切な存在である「あなた」に語りかける。日々のこと、共有した過去のこと、死について、生について、愛について。そこにはたくさんの引用も含まれ、「わたし」と生前の「あなた」が共有していたのは、二人が実際に生きた時間や遭遇した出来事だけではなく、はるかな過去から連なる時間、および知識でもあることがわかる。歴史、文学、映画、音楽――。人ひとり分の実人生では届かない肥沃さに、人を誘なってくれるもの。文学者だけでも夥しい数の名前が登場する。ウルフ、リルケ、ヘミングウェイ、コクトー、J・M・クッツェー、エドナ・オブライエン、カート・ヴォネガット、アーシュラ・K・ル=グウィン、フラナリー・オコナー、シモーヌ・ヴェイユなどなど。あちこちに差挟まれる、それらのそれぞれ魅力的な、ときに互いに相反する引用やエピソードがまったくペダンティックに感じられず、むしろ自然で心安まるものに思えるのは、訳者あとがきにあるように、「この作家が長年のあいだに血肉としてきた言葉だから」でもあるのだろうし、それらが「わたし」と「あなた」の生きたもう一つの現実でもあるからだと思う。
 彼女の語りは静かに続く。犬と猫の違いについて(「犬が忠誠心の権化であることを知らない人がいるだろうか? しかし、この人間に対する忠誠心こそ、本能的であるあまりそれに値しない人間にまで惜しげなく捧げられるこの忠誠心こそ、わたしがどちらかというと猫を好む理由だった」)、昨今の学生について(「わたし」と「あなた」は共に大学の教師でもあり、だから教育の現場について、学生たちについて、大いに意見があるのだ)。文学周辺の、時代の変化に伴う問題はそのまま日本にもあてはまりそうで、興味深いというよりおそろしい気持ちにもなるのだけれど(「最優秀校から来た学生でさえいい文章と悪い文章の区別ができないとか、出版界ではもはやだれもどう書かれているかを気にかけていないとか、本は死にかけているし、文学はもはや死に体で、作家の威信は堕ちるところまで堕ち、どうして猫も杓子も作家になれば栄光への切符が手に入ると考えたりするのかがいまや最大の謎なのだ」)、ともかくそのようにして、「わたし」は「あなた」に次々に語る。作家が作家であることの意義について、老いについて、男であること、女であることについて(散歩問題やマイディア問題。詳しくは本文を参照してください)、「あなた」の未亡人である三人の女たちについて。そのすべては無論言葉によって、精緻に、ときにユーモラスに、いきいきと語られるわけだが、にもかかわらず、言葉があるが故の哀しみが、通奏低音として全編にひそんでいる。「わたし」と「あなた」をつなぐ一匹の犬が、言葉を持たずに豊かに過不足なく体現しているもの――。
 アポロと名づけられたその老齢のグレートデンは、大きいし臭うし物も壊すし愛敬もないが、「あなた」を失った「わたし」のそばに、これ以上ないほど確かな存在感でただ居る。
 言葉を持つ者は持たない者にかなわない(と著者は書いていないが、読んだ私は思わずにいられない)。友だちと恋人の境目はどこにあるのか、フィクションとノンフィクションの境目はどこにあるのか、犬も猫も考えたりしない。言葉を持ってしまった人間にとって、『友だち』というタイトルの持つ意味は深いが、「守りあい、境界を接し、挨拶を交わしあうふたつの孤独」という本書にでてくる言葉は、愛の定義としても友だちの定義としても完璧だろう。私はこの本を、たぶん何度も読み返すと思う。

 (えくに・かおり 作家)

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