書評
2020年2月号掲載
ポップ・カルチャーをめぐる甘美な不協和音(ディスコード)
宇野維正・田中宗一郎『2010s』
対象書籍名:『2010s』
対象著者:宇野維正・田中宗一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-353131-9
2014年から現在まで僕がMCを務めるカルチャートーク番組「ぷらすと」。レギュラー・ゲストである宇野維正さんとの初めての出会いは、2013年9月26日。僕が自らの読書体験を語る、雑誌『ローリングストーン』の特集ページの取材に彼はインタビュアー、ライターとして現れた。数日後に原稿が届いた時、四方八方に飛び散った話題を鋭く取捨選択する思い切りの良さに驚いた。「あ、この人、凄い。何よりデータ的な事実誤認がまったくない」と......。
1年後に「ぷらすと」で再会した彼はヒール役も厭わない断定的で切れ味鋭いトークを武器に、新たなレベルの人気と信頼を得てゆく。その宇野さんが橋渡しをする形で、同番組の「2016年の音楽界を振り返る」という年の瀬企画に招かれたのが、2011年6月に終刊した雑誌『スヌーザー』の編集長、「タナソー」こと田中宗一郎さんだった。
正直に告白すれば僕はこの夜まで、タナソーさんの書かれた文章を意識的に読んだことはなかった。というか、僕は厳格なヴィーガンのように彼を象徴とする90年代『rockin'on』的視座、言葉の"肉汁"を十把一絡げに仮想敵とみなし巧妙に避け続けていた(タナソーさんは「俺だけのせいにしないでよ」と笑いそうだが)。アーティストや作品と自分を必要以上に重ね合わせた、そこはかとない退廃の香りを漂わせるナルシズムに満ちた印象批評に、ミュージシャンとして本能的な拒否感と違和感を持ったのだ。
ただし今、振り返ってみれば自分自身がクリティックから認められず、孤軍奮闘するキャリアを防御するための八つ当たりでしかなかったのだとも思う。
結果、出会ってみると僕はすでに濃密なコミュニケーションを交わしていた宇野さんはもちろん、タナソーさんともある意味「心の奥で鈍く光る友情のような何か」でシンクロする自分を発見した。三者共に、その年急逝したプリンスの信奉者であったことも、信頼の理由のひとつかもしれない。11歳上のタナソーさんを捕まえて「友人」と呼ぶのはおこがましい気もするが、「博覧強記で、見栄っ張り。ひねくれ者でめっぽう弁が立つ、このタイプの面倒臭い先輩」に出会えた喜びに感謝したものだ。まだまだ自分には膨大なインプット可能な領域が存在しているのだ、と。
ふたりが『2010s』を準備するために新潮社クラブ(僕も『プリンス論』執筆の際、「カンヅメ」でお世話になった"聖地"だ)に集結しているという噂を聞いたのは、2019年の春のこと。それまでタナソーさんは僕を含む数人から単著執筆を勧められていたものの、なんだかんだ理由をつけながら「絶対嫌だ」と拒否していた。時期が重ならなかったとは言え、ロッキング・オン社の「後輩」にあたる宇野さんがうまく彼を巻き込んだな、と思った。
しかし、その道のりは相当困難、「天邪鬼な暴れ馬」タナソーを御することなど不可能だったことが、本書を読むとよくわかる。特に「音楽」について。お互い普段は独壇場になるであろう専門分野であるからか、こんなに噛み合ってない対話を文字として読むのは初めてで......。年末年始にクリップで挟まれたどでかいゲラをボロボロにしながら読了するまでの間、ふたりを知る者として何度も苦笑してしまった。明らかな意見の相違、不穏な対立の残骸がトリートメントされず転がっている。
ただし、両者の視点、主張の平行線が無意味でないのが興味深いところだ。思えば僕は一定の強烈なパワーとオリジナリティを持つ組織、集団の中で、時に共存し、格闘しながらも、結果己の道を探し、もがきながら年を重ねて生きてゆく複数の男達の物語に異様に執心してきた。
例えば、ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ。社長ベリー・ゴーディ・ジュニアを中心とするモータウン・レーベルのレジェンド達。日本で言えばジャニーズ事務所のグループもその物語の流れを汲んでいる。兄弟や幼馴染、「若かりし頃に同じ美学を共有した」者、ライバル関係にあるパートナーにしか放てないハーモニーのようなもの、それが仮に不協和音(ディスコード)であったとしても他人同士には鳴らせない甘美な宿命の響きにのみ、僕は心を動かされてきた。そのことに改めて気づかされたのだ。宇野維正と田中宗一郎も互いを認め合いながらも反発し、作品を生み出してゆく「バンド」のような共同体なのだ、と。
『2010s』に封じ込められているのは、本人たちにもコントロール不能となった歴史的価値のある「知的悪あがき」だ。過去と現在、未来への絶望とほのかなる希望。今がこの国のポップ・カルチャーに残された最後のチャンスなのかもしれないと思いながら......。2020年代の僕は、この奇書を何度も読み返すことだろう。