書評

2020年2月号掲載

神話で虚無を超えて行け!

西尾幹二『歴史の真贋』

片山杜秀

対象書籍名:『歴史の真贋』
対象著者:西尾幹二
対象書籍ISBN:978-4-10-458303-4

 戦後七五年である。日本は敗戦によってアメリカに占領され、独立の回復も日米同盟の締結とセットだった。米軍がこの国に常駐するようになって、四分の三世紀を経過した。
 考えようによっては屈辱的である。しかし、楽と言えば楽な七五年であった。安全保障とは存在の保障だ。アメリカと仲良くやれば、日本は存在を保障され続ける。寄らば大樹の陰。日本の真実の選択は日米同盟。戦後日本の信仰になった。いや、そんなことはないと考えたがった者も、昭和の終わりの年に起きた「ベルリンの壁」の崩壊と、その前後の世界史的現実を目の当たりにして、多くは宗旨替えした。日米同盟の唯一無二性をますます認め、その存在の永続性を一段と確信すること。それによって、この国は平成期も生き延びた。
 だが、風向きはだいぶん変わってきたのではないか。日米同盟の確実性とは、アメリカが圧倒的な国力を保持し、なおかつ友と敵を選別しながら世界全体に干渉する性向を有し続けることを前提としていた。そこが綻(ほころ)んできている。
 結果、この国を何が覆うか。実存主義的な不安である。日本と日本人の安全が保障されなくなってくるかもしれない。絶対的と感じられていたはずのものが、儚く虚ろになってくる。そうして支えが消えていったとしても実際に存在し、存在し続けようとするものは残る。それが実存だ。支えがなくとも、かりそめでも、生きてゆきたい。実存主義とは何の確実性もない世界を浮草のように漂う不安の意識の謂いに他なるまい。
 西尾幹二の時代なのである。何しろ、実存と虚無の哲学者、ニーチェを生涯の主題とし、翻ってこの国が存在の不安に如何に耐え、生き延びて行けるのかを、常に考究してきた人でもある。その人が『歴史の真贋』を世に問う。まことに時宜を得ている。
 歴史には客観も真実もない。時代が求め、国家が求め、個人が求める歴史観の相剋があるだけだ。はて、西尾にとっては、何が真の歴史で、何が贋の歴史か。改めて確認するまでもないだろう。永遠の麗しき盟約などあるはずがない。いつまでも厳然と存在し続けるものはない。それでも、そのときどきの力関係やかりそめの約束を、もっともらしく、持続性のあるものであるかのように見せかけるための、価値づけと論理づけは、罷り通ろうとするだろう。それは贋の歴史である。歴史とは確固たる存在の如くに感得されてはならない。西尾はニーチェを引く。「あるのは永遠なる生成のみであること、いっさいの現実的なものはヘラクレイトスの教えるようにたえず働いて生成するのみで、存在することなく、どこまでも無常であるということ」。生成し流転し消滅する。存在の確実性なんて幻想だ。西尾がニーチェに倣って考える真の歴史の核心であろう。
 でも、そこを突き詰めすぎると、単なる個物が生成し、不安におののき、他との軋轢の中で、そのうち滅するのみという、虚無主義の穴に堕ちる。西尾は決してニヒリストでも悲観論者でもない。人は単なる個物でも、無力でもなく、無限生成する歴史の中で生き抜こうとする主体であり、その主体性は民族や国家や言語との結びつきの外では決して担保されないとの信念を有している。本書でもたっぷり論じられている福田恆存と共通する態度だろう。
 でも、西尾は福田よりもずっと踏み込む。実存的不安に耐えて生き抜こうとする日本人の主体性の原動力として、はっきり日本神話とその解釈の伝統をみいだす。たとえば、『古事記』における天之御中主神と高御産巣日神と神産巣日神の出現のくだりの、本居宣長による解釈に深い共感を示す。宣長は『古事記傳』で、三神が何の因果の説明もなくいきなり虚空の無に生成することの不思議さに注意を喚起している。西尾はそこに、ニーチェのヘラクレイトス解釈に通じる、日本人の歴史への構えの根底を発見する。歴史が不断の生成と無常であることを日本人は神話的に体得している! ということは、これからの不安の時代でこそ日本人は輝くのかもしれない。日米同盟信仰の上に安住しすぎ、すっかり忘れてしまった日本伝統の実存的歴史観を呼び覚まそうとする、警世の書である。

 (かたやま・もりひで 政治思想史)

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