書評
2020年3月号掲載
とくべつな才能の主による自伝的小説
白石一文『君がいないと小説は書けない』
対象書籍名:『君がいないと小説は書けない』
対象著者:白石一文
対象書籍ISBN:978-4-10-134076-0
めぐりあわせ、というのだろう。
坪内祐三さんの通夜の斎場に到着する直前、携帯電話でこの書評の依頼を受けた。
亡くなった評論家の定番ジョークのひとつに「文藝春秋の社長になりたかった」があった。漢字が書けずに入社試験で落ちたが、その年入社した白石一文は結局退社して直木賞作家になるのだから、文春は自分を採るべきだったと。
いかにも坪内さんらしい絶妙な按配で自虐と負け惜しみの入り交じった、いわば極上の「敗将の弁」である。のちに小説家として名を成すことになった「勝者」への敬意もどこか感じられるのは気のせいか。
『君がいないと小説は書けない』は、これまでエッセーや対談から距離を置いてきた白石さんが「初めて自分のことを書いた」と認める自伝的小説である。
「小説新潮」に『ひとりでパンを買いに行く日々に』というタイトルで連載されていた時から、登場する作家や編集者のモデルを想像しながら読むのが楽しみだった。文中にちりばめられたヒントを手がかりにネット検索すれば、モデルとなった実在の人物はあらかた特定できる。
還暦目前の小説家・野々村と事実婚のパートナーの営む生活を軸に物語は進む。後半、ふたりの関係が破綻しかねない事件を野々村が偶然目撃したことから、ストーリーは一気に旋回していく。伏線を丁寧に回収したかと思えば、結論と納得した部分が新たな伏線として再機能化する。惜しげもなく披露される高度な小説技術は、白石一文がとくべつな才能の主であることを痛感させる。
だが、これまでも一筋縄ではいかない作品をハイペースで放ってきた著者のことだ。事件の謎解きを最大の読みどころに位置づけて一丁上がりという矮小な意図はない。
何しろ「自伝的小説」である。念願の専業作家になったものの、ゆっくりと首を締められていくような日々に大声をあげることなく抗う、白石版『わが闘争』でもあるのだ。
社員編集者時代の上司や、小説家の父、自分が小説家に転身してから出会った担当編集者たち。彼らと紡いだいくつかの挿話。生きること。死ぬこと。生業として小説を書くということ――。それらを箴言の域にまで高めた独白部分にこそ、この作品ならではの妙味がある。
以下、心に残るパンチラインを五つだけ引用する。
・私というのは「私という体験」である
・文章を書くというのは、紙の上で喋るということだ
・東京という大都市は"前向きの人たち"のための街
・人生とは自己確認のために無数の体験を反復し続ける団子のような回転体
・「相対性理論」はアインシュタインが生まれなくても誰かがいずれ発見したであろうが、ピカソの「泣く女」はピカソが生まれなければ誰も描くことはできなかった
絶品である。こっそりどこかで流用したいという危険な誘惑にかられる。まあ今思いついたような顔をして酒場で口にするくらいなら、大したバチも当たらないか(これまで幾度かそうしてきたように!)。
スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラをめぐる偶然がいくつか登場する。小説における「偶然」はいつの時代も議論の対象だが、白石さんは意識的に多く配したように思われてならない。
おそらくは、あくまで愛すべき「通俗小説」と性格づけたい気持ちがあったのではないか。だとすれば、フィクションの枠組みを確保することで独特なノンフィクション性を獲得したのは、『君がいないと小説は書けない』のいちばん大きな成果かもしれない。さらに言うなら、この作品における「偶然」はかぎりなく必然に近い「奇跡」であり、物語に聖性と霊性をあたえてもいる。
ところで、先に挙げた五つのパンチラインのなかに、じつは著者の父親・白石一郎が残した言葉をひとつだけ忍ばせておいた。それがどれなのかは、実際にこの本を読んで確かめていただきたい。
坪内さんが生きていたら、はたして正しく言い当てることができただろうか。
(まつお・きよし 音楽プロデューサー/作家)