書評

2020年3月号掲載

追悼 藤田宜永さん

グッド・バイ

佐藤誠一郎

小説家の藤田宜永さんが一月三十日に亡くなった。享年六十九。
ジャンルを問わず活躍した三十数年に及ぶ作家生活だった。

img_202003_06_1.jpg

 私事になるが、藤田宜永さんと私には今時稀になったひとつの共通点がある。藤田さんが福井の生家の持つ引力から逃れようと、中学卒業と同時に東京の高校へ進学した経緯については『愛さずにはいられない』で作品化されているが、わたしもまた同様の事情で高校から下宿生活を選んだのだった。係累の重圧を振り切って得た自由の味。その裏腹に感じる寄る辺なさ。
 この特殊な少年期の決断に、私は並々ならぬシンパシーを藤田さんに感じたものだ。幼少期のトラウマへの理解がまだ一般的でなかった時代だったし、思春期の一人暮らしの気分を共有できる人が現れようなどとは思ってもみなかった。三十年にわたって続いた二人の関係の原動力。その一つは、疑いようもなくこの「負の力」であった。
 不思議な縁といえば、藤田さんの最晩年の癌治療に当たって担当医の一人となったのが、私が下宿生活の中で親交を結んだ佐藤健吾君であった。陸上競技部のキャプテンで、いい歳になってからもホノルルマラソンに出場したりする文武両道のオッチョコチョイである。「もしかして藤田さんはあいつをご存じなのでは」と彼がおずおずと問いかけたことから驚きの輪となり、小康を得てからは三人での飲み会にも発展したのだった。こんな奇しき巡り合わせが、お付き合いの最終局面で出現してしまった。これはもう、前世からの因縁話のレベルである。

 藤田さんとは、ある事件がきっかけで、エンタメ小説以外の、いわゆる文学の話ばかりをするようになった。
 事件の舞台は飯倉の「キャンティ」である。料理も上等なら客層もハイレベルで、声高に話す客など皆無、そういう名店だ。
 老舗の仄暗い空間で交わした怒号に近い藤田さんとのやりとりを、私は逐一憶えている。『鋼鉄の騎士』の続編を書けと迫る編集者に、作家はもう冒険小説を書く気が失せたんだと言う。その挙句に作家は「お前は俺の恋愛小説が分からない、いや分かろうとさえしていない」と言い募る。
 そのうち店内は一人去り二人去り、気づけば二人だけになっていた。閉店にはまだ間があった。コーヒーは手付かずのまま冷え切っている。
 一人の作家が自己模倣に陥ることを拒み、新しい道を切り拓きつつあった。そのことが、過去の成功作を担当した編集者にとって不快だったのかもしれない。
 作家が「変節」した、と感じる瞬間が、その後の私に何度か訪れた。作家は作風を変えてゆくものだという当たり前のことが、私にはまだ学習できていなかった。この間に藤田さんは『愛の領分』で直木賞に輝き、作家として本当に書きたかった道筋から成功を手中にし、自分の信念の正しさを証明して見せた。
 というわけでキャンティ事件以来、藤田さんと私の会話はもっぱら古今東西の文学作品に集中した。誓って言うが、私が阿ったからではなく、作家が変わってゆくことを、市場や版元の都合を持ち出して阻止しようと焦るのは罪悪かも知れないと、ようやく気付いたからである。
 そうした藤田さんとの文学談義に再び変化が訪れた。今から三年ほど前のことだ。
 吉行淳之介や芥川、カミュをはじめとするフランス文学に触れることが少なくなり、川端康成と太宰治の話題が格段に増えた。
 藤田さんが選考委員を務めた文学賞の選考会をめぐっても、この作品は川端だったらこう描くだろうに、という具合である。『浅草紅団』が藤田さんの私立探偵ものの「モダン東京」シリーズの原点になっていることに気づいたのもこの時だ。
 川端といえば追悼文の名手として知られ、その作品からは常に死が香っている。生い立ちからして孤独。そして太宰である。
 眷属が多く、記者や編集者も周囲に群れている中で孤独を託っていた人。「トカトントン」みたいな作品を書いてみたかったと藤田さんが言ったのは記憶に新しい。私も還暦を迎えようという頃になって周回遅れの太宰ファンとなっていたから、話は大いに盛り上がった。
 そんな頃、私は藤田さんからある挑戦を受けた。ペンネームを変えたいと言うのである。担当編集者としては「ハイ、わかりました」と応じるわけにはいかない。直木賞作家としてのネームヴァリューがありながら、それが使えないのでは商機を逃す恐れ大だからである。海外では有名作家が別名義で作風の違った作品を発表する例に事欠かない。日本でも木々高太郎のようなケースがわずかながら存在する。しかし販売面から考えると、版元にも作家にもマイナスに働く事のほうが多いはずだ。
 だが藤田さんは、遊び心からそれを言い出したようには思われなかった。これまでに得た勲章抜きで、作品がどう評価されるか見てみたい、それが今の自分の実力だろうから、ということらしい。つまり、作家としての新たな俺の挑戦を、お前は叶えてくれるかと迫ったのである。藤田さんが私にもたらした、これが二度めの試練だった。
 面白い人だな、と私は改めて思った。こんな作家、滅多にいない。しかしペンネームの変更といった重大案件を易々とOKする版元があるとすれば、それは非営利の政府系か、さもなくば詐欺だろう。そこにせめぎあいがあるからこそ作家と編集者なのだから。
 私は気を取り直し、ある商売っ気たっぷりな条件を付けて、ひとまず藤田プランを受け入れた。その条件とは「作家当てクイズ」である。曰く「この作品は、さる有名作家が別名義で書き下したものです。ついてはそれが誰かを当てて下さい。正解者には漏れなく粗品を進呈します」。
 この条件に対して藤田さんはあまり興味を示さなかった。新人作家として一からやり直したいとの熱い思いが先行していて、後は任せるという気分だったのかもしれない。
 それから二、三ヶ月のち、近所の魚屋で鍋の具材を物色していた時のことだ。携帯から流れてきた藤田さんの声は弾んでいた。「群像」に別名義で発表した中編「慎ましく世界を破壊すること」が、朝日新聞の「折々のことば」に取り上げられたというのである。中村太郎名義という点と、発表誌がエンタメ系でなく伝統ある純文学雑誌だったから、編集者としてもフォローのしようがなかったのだが、「折々のことば」は、何のしがらみも先入観もなくそれを読んで絶賛していた。
 これで気が済んだのか、ペンネームの変更について藤田さんから言い出すことはなくなった。肺気腫の診断を受け、藤田さんが煙草をやめたのはこの少し前のことと記憶する。肺に癌が見つかったのはそれから一年ほど後のことになる。
 癌治療を受けるようになってから試作を繰り返していた作品があった。昨年秋になって、タイトルも決めたんだと藤田さんが私に告げた。それが「七十歳の人間失格」だった。太宰作品へのオマージュというわけではないという。書き方も内容も全然違うが、テーマは近いとのことだった。主人公にある職業的キャリアを与え、社会的存在としての眼から現代を描こうと試みることの多かった藤田さんが、一転して個人としての自分を前面に出そうとしているように思われた。
 私はタイトルについて「七十歳の」はこのさい不要でしょうと返答した。あなたにはたぶん太宰が乗り移っているから、余計なものを入れてはタイトルに躊躇い傷を残すようなものだよ、との意味を込めたつもりである。分ってくれたかどうかは別にして、七十歳には二ヶ月を余して届かなかった藤田さんである。

 この人ほどおしゃべりな作家はいなかったし、これからも現れないだろう。寂しさを紛らすための饒舌ともとれるが、その愛嬌は本物だった。話す自分も楽しいし相手を笑わせてなお楽しい。自分の話を聞いてくれ、分かってくれといった焦燥が滲むような話し方とは無縁だった。深夜、別れを告げるときに見せる笑顔は魅力的だったなあ。まだ話し足りなげではあるが、お前にも日常生活ってのがあるからな、といった諦めの交じった笑顔というところか。そういえば含羞という言葉を藤田さんは日常的に好んで使っていた。あの笑顔は含羞そのものじゃないか。
 ざっくばらんでいて細かい気配りの人。世渡り上手そうで実は下手。大胆不敵なわりに小心者、お喋りで人懐っこいのに寂しがり屋――様々な藤田評は、つねに逆接の接続詞を含んでいる。そして皆それを「藤田さんらしい」で括ってみせる。私に言わせればこれこそが藤田さんらしさの肝である。
 藤田版『人間失格』は、ついに完成には至らなかった。エッセイとも小説ともつかぬ文体で書き始めていると藤田さんは言っていた。「エッセイは小説風に、小説はエッセイ風に」という山口瞳さんのようなスタイルですかね、と私は問うのだったが、藤田さんはもう答えてはくれない。
 人柄も作品も魅力的だったが、その源泉の一つを体験的に共有しているにも拘らず、分かりそうで分からない作家であり続けたのが藤田さんだ。太宰治もまたその一人。『鋼鉄の騎士』のラストをもじって言えば、「私の藤田宜永をめぐる旅は、まだ始まったばかり」なのである。

 (さとう・せいいちろう 新潮社担当編集者)

最新の書評

ページの先頭へ