書評・エッセイ

2020年3月号掲載

避けて通ることのできない書物

ミシェル・フーコー『言葉と物 人文科学の考古学〈新装版〉

慎改康之

対象書籍名:『言葉と物 人文科学の考古学〈新装版〉
対象著者:ミシェル・フーコー/渡辺一民・佐々木明訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506708-3

 一九六六年にフランスで出版された『言葉と物』は、ミシェル・フーコーの一大出世作となった。少数の専門家に向けて書かれたはずの極めて難解な書物が、「人間の死」ないし「人間の終焉」という挑発的テーゼとともに哲学書としては異例の商業的成功を果たし、これを機にフーコーの名は広く世に知れ渡ったのだった。
 実は、フーコーは後に、「『言葉と物』は私の真の書物ではない」と語ることになる。この著作において分析されているのが秩序とその存在様態とをめぐる経験であるのに対し、自分を本当に魅惑していたのは、そうした経験の限界にかかわるテーマ、すなわち、狂気、死、性、犯罪といったテーマであった。したがって、それらのテーマを扱った他の自著と比べるならば、『言葉と物』は自分にとっていわばマージナルな書物なのだ、と。
 しかし、著者自身による回顧的な評価がいかなるものであるにせよ、二十世紀後半のフランスにおける思想的転回にそれが果たした役割において、そしてまたフーコー自身の研究活動のなかでのその位置づけにおいて、『言葉と物』が我々読者にとって極めて重要な著作であることに変わりはない。
 まず、その歴史的な意義について。フーコーも述べているとおり、第二次大戦前から戦後にかけてのヨーロッパ哲学を支配していたのは、主体をあらゆる知の基礎とみなそうとする主体性の哲学であった。しかし、一九五〇年代後半から一九六〇年代にかけてそうした支配が次第に弱まるとともに、新たな波が現れることになる。主体の意識の外から意識に課されるものとしての「構造」に関する探究が、さまざまな領域において行われるようになるのである。そして一九六六年、「構造主義者」とされる人々の著作が次々に発表され、その波が最大の高まりに達するなかで、とりわけ脚光を浴びたのがまさしく、フーコーの『言葉と物』であった。つまりこの書物は、人間の主体性にそれまで与えられてきた特権に対する異議申し立てという当時の潮流を象徴するものとして現れ、そのようなものとして広く受け入れられたのである。
 実際、フーコーがそこで示してみせるのは、至上の主体であると同時に特権的な客体としての「人間」が、実は比較的最近になって現れたものにすぎない、ということである。ルネサンスにおける「類似」の解読から古典主義時代における「表象」の分析へ、そしてそこから近代における「人間」の発明へ。西洋の知の歴史的変容をこのように描き出し、そしてさらには間近な「人間の死」を予告することで、『言葉と物』は、新たな時代の幕開けを決定的なやり方でしるしづけたのだ。
 そしてそればかりではない。一つの時代を画す書物であるのみならず、フーコー自身の研究活動のなかである種の特権的な地位を占めているという点からも、一九六六年の彼の著作の意義を見定める必要がある。
 というのも、『言葉と物』によって前面に押し出されている「人間」の問題化は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけてのフーコーの著作すべてを貫いて見いだされるものであるからだ。まず、狂気や病をめぐる「考古学的」探究が展開された一九六〇年代には、「人間学的思考」の歴史的成立が、精神医学や実証的医学の登場を可能にした要因のうちの一つとして示されていた。そして、刑罰制度やセクシュアリティといったテーマをめぐる一九七〇年代の研究のなかで、権力のメカニズムの変化と連動するものとして粗描されるのもやはり、近代における「人間諸科学」ないし「主体の学」の形成なのだ。要するに、フーコーを魅惑していたという死や狂気、犯罪や性といった問題のすべては、一九八〇年代に古代世界の探究へと向かうまで常に、十八世紀末の「人間」の発明という出来事と決して切り離すことのできないものとして扱われているのである。
『言葉と物』は、フランス思想の画期をなしたものであると同時に、フーコー的言説の要石でもあるということ。したがって、これを読まずしてフーコーを語ることなどできまい。二十世紀フランス思想において彼が果たした役割を見極めるためにも、さまざまな領域を踏破してなされた彼の研究の数々を互いに関連づけるためにも、さらには我々が今なお彼に負っているものについて思考するためにも、『言葉と物』は、困難ではあるが決して避けて通ることのできない書物なのだ。

 (しんかい・やすゆき フランス思想)

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