書評・エッセイ

2020年3月号掲載

新潮文庫『特別な友情 フランスBL小説セレクション』刊行記念

「特別な友情」という名の「愛」

森井良

寄宿舎、ブロンド、膝の傷――
愛の多様性が萌えさかるフレンチBLイベント・レポート!

対象書籍名:『特別な友情 フランスBL小説セレクション(新潮文庫)
対象著者:ランボー、コクトー、ジッドほか/芳川泰久、森井良、中島万紀子、朝吹三吉訳
対象書籍ISBN:978-4-10-204513-8

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 フランスの恋愛文学というと、必ず持ち出される「鉄板ネタ」がある。南仏の宮廷詩人(トゥルバドゥール)が歌う「至純の愛」、『クレーヴの奥方』からつづく心理小説の系譜、『マノン・レスコー』や『カルメン』といった「宿命の女(ファム・ファタール)」もの、そして古(いにしえ)から現代までえんえんと変奏される不倫不倫不倫――ご多分に漏れず、筆者も大学の講義でこういったネタを繰り出してきたわけだが、繰り出しながらも腑に落ちないところがあった。

 異性愛。しょせんこの世は男と女。♪ダバダバダ、ダバダバダとあの悪夢のようなリフレインが叫びだしてしまうのだ。そんな窮屈なフレームなどものともしない傑作がぞろりとあるのに。むろん、仏文学史がそういったものを無視しているわけでは決してないが、結局は「禁断の愛」というタグ付けのもと傍流に片づけられてしまうのが関の山。いつか、あの隠れた名作たちをメインロードで存分に走らせてあげたい――。
 祈りは唐突に叶えられた。一昨年の七月、新潮社から、画期的なアンソロジーを編ませてもらえることになったのだ。その名も『フランスBL文学セレクション』(仮)。いわゆる「ボーイズラヴ=男性どうしの恋愛物語」の精華集をつくろうというのだが、以前から密かに温めてきたこの妄想に、思いがけず賛同いただける方々があらわれ、あれよと思ううちに企画として通ってしまったのだ。ありがたい!
 作品の選定作業は、つらくもたのしい。まず思い浮かんだのは日本未紹介のロジェ・ペールフィット。彼の代表作『特別な友情』は日本のBLジャンルの成立にかかわった寄宿舎BLの名作であり、事実、本作を映画化したジャン・ドラノワ監督の『悲しみの天使』は、「BLの祖」として名高い萩尾望都の『トーマの心臓』や竹宮惠子の『風と木の詩』に着想を与えた伝説の一本なのである。それからコクトーやジュネといった同性愛ものの定番はもちろん、ジッド、プルースト、マルタン・デュ・ガールなどの大御所も当然の当確。意外なところではカサノヴァの仏語で書かれた『わが生涯の物語』、サドの『閨房哲学』、ユイスマンスの『さかさま』の一章を入れてみたいし――というかその前に、ヴェルレーヌ/ランボーという世紀のカップルを入れないわけにはいくまいが、さて、ふたりの何を収録しようか?――ここまで一方的に聞かされて「なんだ、男の書き手ばかりじゃないか!」とご不満のむきがあるかもしれない。しかし心配ご無用、フランスBL文学の奥座敷には『ムッシュー・ヴィーナス』という傑作をものにした「古典BLの女王」ラシルドが控えている。
 ともあれ十八世紀から二十世紀まで、小説を中心に詩・戯曲・書簡を織り交ぜながら、十二人の作家の逸品を一ダース取り揃えることができた。バルザック研究者で『失われた時を求めて 全一冊』(新潮社)の編訳者でもある芳川泰久先生、レーモン・クノーを専門としながらサブカルにも造詣の深い中島万紀子さんを共訳者として迎え、編集部の方々とともに協議を重ねた成果である。
「BL」は定義の難しい言葉だが、本書ではあえて「男の子どうしの特別な友情=友情以上の熱い関係」というやや広めの意味を込めさせてもらっている。性愛を含むものから含まないもの、ブロマンスからハードコア、明らかな同性愛から読者の補正待ちの関係まで味とりどりに愉しめる詰め合わせにしたかったからだ。なかには境界的な作品や劇薬(?)も混じっているかと思うが、それは「BLの大枠から入って少しだけ魔境に迷い込んでもらえたら」という仏文ダークサイド系編纂者のお節介にほかならない(その責はかくいう筆者にあります......あいすみません......)。何人かの作家については既に日本で十分に紹介されているきらいがあるものの、「BL」というちょっと意外な装いのもと、知られざる作品の発掘(『特別な友情』『ラミエ』)、名作・名訳の再紹介(朝吹三吉訳『泥棒日記』)、新訳による新たな生の吹込み(「友は眠る」『ソドムとゴモラI』『灰色のノート』ほか十一編が新訳)を積極的に試みたつもりである。
 そして去年のクリスマス、『特別な友情――フランスBL小説セレクション』として新潮文庫より上梓。装画はイラストレーターの華憐さん。表題作に登場するアレクサンドル少年を描いたあの衝撃的な表紙は、他ならぬ彼女の手によるものである。アッシュ・ブロンドの巻き毛、赤のリボンタイ、友から密かに受けとった手紙、そして密会の舞台となる温室――寄宿舎の美少年のアバターを余すことなく再現してくれたあの装画は、まさに現代に甦った「耽美」そのもの。
 そして祝祭ムードが冷めやらぬなか、年明けの一月十一日、早稲田大学戸山キャンパスにて刊行記念を兼ねたシンポジウムが開かれることになる。タイトルは「仏文×BLのただならぬ関係」。訳者三人がパネラーとなり、フランスBL文学をディープに掘り下げていこうという企画だが、二時間という限られた時間のため取り上げる作家を絞り、幕間に参考映画の鑑賞コーナーを配することに。

img_202003_16_1.jpg  そしてサプライズのコスプレ。じつは打ち合わせの際、誰からともなく美少年キャラの扮装をしてはどうかと提案があり、義務化されてしまったのである。当初は渋っていたもののやがてスイッチが入りはじめ、「パーマを当てた!」「ウィッグを注文した!」「子羊を調達した!」とマウンティングの応酬のすえ、三人そろって前掲写真のような仕上がりとなった。一応説明すると、中島はチボー家のジャック(『灰色のノート』)、芳川は寄宿舎の美少年(本書の表紙)、筆者はミサで子羊を奉納するアレクサンドル(『悲しみの天使』)である。芳川、もはや誰だかわからず、司馬遼太郎と間違えられてしまう。
 会場には七十人超の年齢性別さまざまな方がご来場。仏語や文学専攻の学生だけでなく、「腐女子・腐男子」を自称するBLファンの方々、BLが「耽美/JUNE(ジュネ)」と呼ばれていた頃からのファンの方、なかには萩尾先生の元アシスタントという男性もいらした。パネラー陣のコスプレ登場に会場どよめくも、体を張った私たちの「無理芸」を暖かく迎えてくださった。まずはヴェルレーヌ/ランボーだが、二人の関係性と本書収録の「往復書簡」が話題となる。ランボーは「ファム・ファタール」ならぬ「ギャルソン・ファタール」の典型ではないか。
 つまり恋人を破滅させるほどの「致命的な(ファタール)」魅力をたたえた少年。しかも「ファム・ファタール」が男性の幻想(ファンタスム)で造られた虚像でしかないことを思えば、ふたりの関係性はまさに「ファム・ファタールもの」のBL版を呈している。参考映画はアニエスカ・ホランド監督の『太陽と月に背いて』。ランボーを演じる若きレオナルド・ディカプリオにため息が巻きおこる一方、会場には美少年時代のレオ様を知らない世代もいたようである(ここで中島と筆者のあいだでレオ様主演作解説合戦勃発――『ギルバート・グレイプ』『ロミオ+ジュリエット』『タイタニック』『J・エドガー』――とくに『J・エドガー』には『太陽と月に背いて』へのオマージュのような男性カップルの凄まじい「ボコリ愛」が描かれているので要チェキ)。
 つづくコクトーの章では、詩人のBL的交友の変遷に切り込んだ。とくにリセの同級生ダルジュロスは、後の詩人にとって霊感の源(ミューズ)となるべき存在だが、「陰キャ」だったコクトー少年がこの腕白な友の「擦り傷だらけの膝」を偏愛していたことが紹介されると、「陽キャの膝」はBL的に重要な萌えポイントではないかという中島の指摘が飛び出す。会場、うなずく者多し。コクトー自身が監督した参考映画の『詩人の血』ではかの有名な「雪合戦」が描かれるが――その名もダルジュロスという少年の投げた雪玉を胸に受け、主人公が吐血しながら喘ぐという名場面――そこからBLとSMの親縁性、三島由紀夫の『仮面の告白』への反響などが指摘され、ナレーター(=コクトー自身)のいきった濁声(だみごえ)にすばやく感応した中島がお得意の声帯模写を披露。会場大爆笑。いよいよ深夜ラジオめいてくるも、最後に芳川より鋭い洞察が入る――映画冒頭の彫刻の粉砕が表すように、「美」は破壊されなければならず、しかも「既に失われたもの」にほかならない。「既に失われた美」を思い出すのが耽美の尊い意味なのであり、だからこそ美少年もまた死ななければならず、しかも最初に死ぬことによって、記憶と耽美の視線がフィルターのように美少年にかかってくる。これが耽美BLの要件であり、その意味で『太陽と月に背いて』も萩尾望都の『ポーの一族』も正解なのだ。
 ――さすがテクスト論者の鋭い指摘だが、つづくプルーストの章も芳川の持ち場となり、今回の『ソドムとゴモラI』の覗き見シーンの自由訳について真意が語られた。参考映画は『失われた時を求めて』の最終巻を豪華キャストで映像化した『見出された時』(ラウル・ルイス監督)。この映画にも同じ構図の覗き見が再現されているが、演出の点で不可思議なことが多々あり、パネラー陣のオフ・ヴォイス解説がツッコミ合戦に成り果てる。会場もつられて苦笑。
 つぎのラシルドの章で議論になったのは「古典BLの女王」に染みついた女性嫌悪(ミソジニー)(これは森茉莉や中島梓などBLの女性作者に内面化されたものとしてしばしば問題になる点である)。例証として今回収録を見送った短編『ソドムの収穫期』の酷たらしいストーリーが紹介されると会場から悲鳴。ソドムという男だらけの町に迷い込んだ欲求不満の女性が、葡萄畑で美少年にイタズラした廉で住民の怒りを買い、逃げ込んだ樽のなかで圧搾され、ついにはワインの嵩(かさ)増しにされてしまう――悲鳴はいや増すがフォローする間もなく、いろんな意味で焦りながらラストのペールフィットへ。『悲しみの天使』は超レア盤なので是が非でもお目にかけなければならない。カップルが互いの血を飲み交わす「契り」の宗教的意味などが解説され、年長者役の俳優が「大人すぎる」とツッコミも入ったが、何より相手役のディディエ・オードパンの無垢な色っぽさに感嘆の声が上がった。これは普遍的な魅力だろう。
 最後の質疑応答では、七〇年代の少女マンガ家がBLを描くにいたった理由やそれ以前のBL表象のあり方について質問が飛んだ。この点は石田美紀の『密やかな絆――〈やおい・ボーイズラブ〉前史』(洛北出版)に詳しいが、さしあたって六〇年代に森茉莉の実作や稲垣足穂の少年愛理論が先行してあり(彼らは仏文とも縁が深い)、そうした下地と本書で紹介したような文学・映画作品を摂取した少女マンガ家たちが、七〇年代におけるカルチャーの主戦場の交代を背景に、女性による女性のための表象として男性身体を捉え返したということが言えるだろう。

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都の西北に〈BL愛〉がほとばしる!

 そして質疑応答のしめくくりとして、ランボーは攻め/受けどちらだったのかという難問が突きつけられた。これについてはどちらの可能性もあるので何とも言えない。ヴェルレーヌは逮捕時に屈辱的な検査を受けて「男色行為あり」という判定を下されているし、他方でランボーは相方と出会う以前にパリ・コミューンの兵士たちに犯された経験を有している――しかしこれらを証拠に何をか言わんや、最終的な答えとしては、各自の想像にお任せしたいと伝えるにとどまった。
 あっという間の二時間。途中脱線に淫したところはあったが、本書のコンセプトどおり、自由で優しい空間が終始流れていたと思う。なかでも最年長である芳川の「BLに関わったことでより自由になれた。いかに自分が囚われていたかがわかった」という発言は感動的に響いた。
「男らしさ」の檻から解放されるのに年齢は関係ない。セクシュアリティはどうあれ、男性のBL読者が近年増えている背景にはこうしたBLの解放的効能があるはずで、そこに私たちは希望を見ていいだろう。かくいう筆者も「腐男子」の端くれだが、「クィア」のように、「腐」という一見ネガティヴな烙印(スティグマ)がより自由で優しい世界の扉をひらく符丁に翻ってゆくことを願わずにいられない。実際、ペールフィットの作中、「特別な友情」は「個別的な=公衆の面前では憚られる」ものとして糾弾されていたが、それを当事者の少年たちが永遠につづく「特別な=スペシャルな」ものに価値転換していったのだ。物語の終盤、十四歳のジョルジュは十二歳のアレクサンドルへの最後の手紙の中でこう書いている――。
「これだけは知っておいてくれ、僕らの友情は愛と呼ばれるものだってことを」 (もりい・りょう フランス文学者)

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