書評・エッセイ

2020年4月号掲載

再生する村上龍 表現の源を見つめる

村上龍『MISSING 失われているもの』

内藤麻里子

対象書籍名:『MISSING 失われているもの』
対象著者:村上龍
対象書籍ISBN:978-4-10-393402-8

 油断していた。いや、油断ともちょっと違うか。先鋭的な問題意識で時代に切り込み、さまざまな手法で思い切った強度の物語性の中に現代の在り処を突きつけてくる、そんな村上龍作品の新たな誕生をワクワクしながら待っていたのだ。ところが、五年ぶりの長編となる『MISSING 失われているもの』は、そんな期待を木っ端みじんにし、見たこともない地平を現出させた。
 ご本人に重なるような小説家の「わたし」を主人公に、無意識をたどる、これまた先鋭的な異色作なのである。浮かび上がるのは作家とは何者か、小説とは何かというテーマだ。自身の実体験を彷彿とさせるような一九七六年のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』や青春小説『69 sixty nine』(八七年)もあるが、もっとずっと根源の混沌に潜っていく。そこは生と死のあわい、記憶も曖昧な領域だ。この作家にとって珍しいことに私小説的でもあるが、いわゆる私小説とは別物だ。
 すべての始まりは、飼い猫の声が聞こえてきたことだった。自分の考えていることが猫に反射されて返ってきているだけだと分析する「わたし」に対し、猫は「無意識の領域から、他の人間や、動物が発する信号として、お前自身に届く。(中略)お前は、(中略)それを文章に書いたりしてきたんじゃないのか。表現者の宿命だ」と核心的なことを口にする。無意識とは何か。そして「お前が、探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ」と言う猫に促され、無意識への旅の幕が上がる。
「わたし」は不安や抑うつを抱えてカウンセリングを受けてもいたから、無意識への旅をするのは必然性もあったわけだが、心療内科医が「過剰な想像が、現実を包み込んでしまったり」すると説明する事態である。
 まず導き手となるのは若い女優だ。定宿としているホテル近くの公園や部屋、廊下をめぐっているうちに記憶が揺らぎ出す。昔からだというある性癖が頻繁に顔を出す。刺激的なイメージにとらわれて記憶が曖昧になるとき、三本の光の束がスクリーンとなって死んだ子犬、写真、桜などさなざまな映像が見えてくるのだ。この経験を最初にした幼い日を鮮明に思い出す。過去と現在が交錯していく。そう、この旅は過去に向かう旅であった。そうなると、導き手にふさわしいのは母親だ。やがて母親の声が聞こえてきて、自分の旧朝鮮からの引き揚げ体験を語り、「わたし」の幼いころを語る。その母によって、今に続く「表現者」としての立ち位置が浮き彫りになってくる。
「ミッシング」として存在しているものが大きなファクターだ。すべてを記憶しているという"作家の目"について明かし、不安や抑うつを生じさせているものも絡み合って提示された物語は、表現の源を見つめる試みと言える。書くことでしか生きられない作家という存在が臨んでいる淵の深さは恐ろしいものがある。
 そして本作には、もう一つ重要な点がある。母は言う。「あなたは立ち止まりたかっただけ」と。そして書いてきた作品は「あなたにとって、自分の死に向かっていく道標」だと。長い道程の先には「老い」があった。五年前の前作は老人たちが登場する『オールド・テロリスト』であったことを挙げるのはうがちすぎか。今回初めて自身の「老い」に向き合った結果、この異色作として結実した。表現の源に迫る必要のある、特別な作品になったのである。
 ともあれ、それらが「わたし」を生かしている。第9章「ブルー」では、母の声と「わたし」の声が折り重なってデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の成立過程が語りあげられていく。そのさまはぞくぞくするほど感動的である。そればかりではない。『限りなく透明に近いブルー』で小説世界のことを「宮殿」と表現したが、本書で作り上げた宮殿のあちこちに出てくる言葉のかけら、映画、小道具、情景に、これまでの作品のモチーフの数々が見つかって、ここに確かに村上龍がいる。本書は、以後、村上論を語るのに欠かせない一冊になるだろう。
 幻想がどんどんヒートアップする。終章「復活」の幕引きは秀逸だ。パタンと物語は閉じる。閉じる言葉は力強く、笑ってしまうほど身もふたもない。しかし、それこそが小説家というものだと思う。これは、小説家の再生の物語であった。今、村上龍に必要な物語だったのではあるまいか。最初から村上龍ありて、これからも村上龍あり、という感慨が押し寄せてきた。

 (ないとう・まりこ 文芸ジャーナリスト)

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