書評・エッセイ

2020年4月号掲載

抗い続ける人々のための薔薇

アリ・スミス『秋』(新潮クレスト・ブックス)

松田青子

対象書籍名:『秋』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリ・スミス/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590164-6

 日常がいつの間にか、少しずつ変容していたことに気づいたのはいつだっただろう。飲食店で隣の男性が「○○人が日本にやってきて、血が混じっていく」と話していた時? 踏切で近くにいた学生グループの一人が、「修学旅行で○○に行ったのが恥ずかしい」と言った時? ある頃からずっと、その空気は広がり続けている。
 本書、アリ・スミスの『秋』は、二〇一六年、EU離脱の国民投票が行われた一週間後のイギリスを舞台にしている。ロンドンの大学で美術史の非常勤講師をしている三十二歳のエリサベス・デマンドの周囲も不穏さを増していき、彼女は戸惑いを隠せない。郵便局ではまるでディストピア小説のようなやりとりが続き(順番を待つ彼女が読んでいるのは、ハクスリーの『すばらしい新世界』だ)、母の家の近くの公共用地にはフェンスが突如として出現し、黒いSUVの男たちが監視している(「イギリスのあちこちで国が分裂し、こっちにはフェンスが立てられ、あっちには壁が作られて、こっちには線が引かれ、あっちでは線を越える人が出てくる」)。エリサベスの母は、救いのない格差社会が生んだこの状況に「疲れた」と嘆く。エリサベスは、タクシーを待っていたスペイン人の家族に「家に帰れ(ゴー・ホーム)!」と叫ぶ人々を目にし、「このふとした出来事は何か巨大な動きの一端でしかない」と思う。近所の家の壁には黒ペンキで「家に帰れ(ゴー・ホーム)!」と落書きがあり、メディアも"一線を越えた"言説を垂れ流している。
 こんな日々のなか、エリサベスが通うのは、彼女の少女時代の隣人ダニエル・グルックが収容されている老人ホームだ。百一歳の彼は昏睡状態が続いている。八歳のエリサベスは、学校の宿題をきっかけにしてダニエルと親しくなり、生涯の友情を築く。言葉を使い、あるいは使わず、特別な瞬間を差し出してくれるダニエル。エリサベスは、家の中にアート作品が飾られ、他の人とはまったく違う彼とともに過ごすことで、物語の重要性、そして世界の読み解き方を自分の中に蓄えていく(「いつでも何かを読んでいなくちゃ駄目だ、(中略)文字通りに本を読んでいないときでも。じゃないと、世界を読むなんて不可能だろう? 読むというのは不断の行為だと考えた方がいい」)。
 十八歳のエリサベスは、美術品店で偶然見つけた図録を見てはじめて、かつてダニエルとゲームをしている最中に語られたコラージュ作品が現実のものだったと知る。作者はポーリーン・ボティ。六〇年代のポップアーティストだ。「イギリスには女性ポップアーティストなんて存在しなかった」と学んでいたエリサベスは驚き、二十八歳で亡くなったポーリーンを「悲しい話」「取るに足りない」と切り捨てようとした指導教員に刃向かってまで彼女を論文の題材に選ぶ。実在したポーリーン・ボティは、日本でもコラージュ作品で注目されるも、結婚を機に制作をやめてしまった岡上(おかのうえ)淑子など、無数の忘れられた女性アーティストの姿と重なる(「彼女は貼った。切った。描いた。そして集中した」)。
 エリサベスにとって、ポーリーンと彼女の時代について知ることは、謎めいたダニエルの人生の欠片を集めることでもある。人々に評価されず、一時は行方不明になっていたボティの作品を、記憶の中で保存し続け、「いいと思わないか?」と心から感嘆するダニエルと、「本当に傑作」と応じるエリサベスは、世代を越えて、社会に左右されない同じ魂を有している。そして、この魂こそが、この不穏な時代を生き抜くために何より必要なものなのだと、アリ・スミスは表明しているように私には思える。
 スペイン人家族を守るように優しくする人々。黒ペンキで落書きされた壁は「大きなお世話。ここが私たちの家(ホーム)」と鮮やかな色で書き足される。たゆまず抗うことだけが現状を守るすべであり、これ以上大切なものを失うわけにはいかないという瀬戸際では、忘れないこと、記憶し続けることも、立派な抵抗だ。ダニエルからエリサベスにボティの作品がつながったように、記憶は、意志はリレーされていく。
 そして、最後に登場する薔薇の花。私が想起したのは、労働者のストライキの歌「パンとバラ」だ。LGBTQの若者と炭鉱の人々の連帯を描いた映画『パレードへようこそ』でこの歌を知った。パンが物質的な糧ならば、薔薇の花は精神の糧、つまり尊厳や不屈の魂といったものを意味している。先が見えないまま、それでも抗うことをやめない人々に、アリ・スミスが贈った薔薇の花は、色が明らかにされない、自由の色をしている。

 (まつだ・あおこ 小説家・翻訳家)

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