書評・エッセイ

2020年4月号掲載

そのぼうようとしたひろがりのなかで

内藤礼『空を見てよかった』

堀江敏幸

対象書籍名:『空を見てよかった』
対象著者:内藤礼
対象書籍ISBN:978-4-10-353171-5

 数年前、目黒の庭園美術館で、体長数センチの彫像がぽつんぽつんと置かれている展示室をゆっくり回りながら感じていたのは、あのちいさな「ひと」たちに魅せられて近づいていくと、空間の持つ力が不意に減じて、むしろ居心地が悪くなりはじめることだった。遠ざかりすぎてもだめなのだが、そこにできあがっていた世界においては、物理的な、数量に換算できない距離の尺度が機能していたのである。遠い、近いは、観る側の問題だとばかり私は思っていた。しかしそこでは、観られている作品の側がこちらとの距離をはかっているように感じられた。ちいさな「ひと」と観る者がともに存在しうるために求められた距離がたしかにあって、しかもそこに遠い近いの概念がない。むしろ遠さが保たれたまま近づき、一線を超えると、距離そのものが消える。そういう不思議な感覚が、しばらく尾を引いていた。
 既出の文章に書き下ろしや未発表私記を加えて構成された本書『空を見てよかった』に触れているうち、そのときの感覚がよみがえってきた。遠さも近さもない空間。時間もなくなったら差異が消滅して、すべてがぼやけてしまうはずなのだが、内藤礼はそれを否定的にとらえていない。中心にぽっかりあいた空虚な一点をつくることも、暴力的な風向きをこしらえることもしないで、曖昧に溶けていくひろがりを見ようとする。
「このとき、すべての方向より、私を突きぬけて流れ去る断片の、その奥ふかく、すきとおったところには、続いているものが芒洋と横たわっている」。「そのぼうようとしたひろがりは、夜の闇をわずかに残している」。「ひとりになると気配をさっした。道や空や土からの、いるものといないものの茫洋たるようす」。「お母さんのまわりには、ぼうとしてわからないひろがってゆくなにか」
 軽い鳥の骨のようなバルサ材でできたちいさな「ひと」たちが必要としていたのは明確な距離ではなく、「茫洋」として「私が内からも外からもあけはなされていく」ことが可能になる空間だったということだ。遠さと近さのあいだの、奥行きを悟らせないこの空間が、暗闇に手を這わせるような言葉でとらえられていく。飛躍のある言葉が有機的につながるのは、それが空間を現出させるための道具であり、「生まれようとする過程でわたしを超えでる」ものだからだろう。
 要するに語り手は自分を超えてきたべつの自分と、この空間に住んでいるということだ。茫洋とした存在の明るみを、ぼんぼりの薄明かりのように外から見られるのは、さっきまでいた内側の場所をもうひとりの自分に、あるいは無数の自分に明け渡したからだろう。「私」と言ったり「わたし」と記されたりする一人称が存在する者としてあるよりもずっと前に、「空間」はそこにあったのだ。
 とするなら、そのような解釈を可能にする視点こそが、「存在」だということになる。表向きやわらかく見えるけれど、本書の言葉は非常に硬質である。存在、空間、時間、大地、空、呼びかけ、無、創造、根源。茫洋としたひろがりのなかから、なにかが見えてくる。「見えるとは、わからないものの内部からこちらにむけて、むこうから現れてくる呼びかけのことなのだろうか」という一節をはじめ、幾度も反復される「呼びかけ」には、意識されていたかどうかはべつとして、ハイデガーの影がちらついている。存在と言葉と思考。言葉こそが存在の住まいであると、ハイデガーは語っていたではないか。そして、この言葉に住み着くのが人間なのだ。
 美術家には、本来そうした言葉は不要である。自分が自分ではなく、それでいて自分であり、あなたでもあるという感触を、言葉を使わない作品によって、遠さも近さもない「あまりに全体というようなもの」のなかで探り当てることができる。ではなぜ、作品に詩文のような言葉を添えたり、言葉だけの湧出を待つ必要があるのか。「ひとりにひとつ与えられている」その空間に他者を招き入れ、震えを共有するためだろう。自分とは切り離された新しいなにかが生まれるのを外部から観察し、「存在」を呼び寄せる気に満ちた世界がこの先どんな形で立ち上がるのか、私もまたぼんやりと待ちつづけたいと思う。

 (ほりえ・としゆき 作家)

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