書評
2020年5月号掲載
生きることは、「ミスする」こと
伊藤比呂美『道行きや』
対象書籍名:『道行きや』
対象著者:伊藤比呂美
対象書籍ISBN:978-4-10-131222-4
「こんな書き方があるんだなあ、というのが読み終わった感慨でした」
と言って、旧知のみすず書房の編集者が伊藤比呂美さんの『切腹考』を送ってきてくれたことがあった。
「連載のエッセイをまとめた本なのですが、それだけではない。身近な人の緩慢かつ身も蓋もなく身体的な死の過程とそれを見つめる自分、といったモチーフがずっと流れていて、最後まで読むとそのモチーフについての文学として本の全体像が見える」
いつも辛口で熱心に何かを褒めることはあまりない編集者なので、へえ、これは珍しいことだと思って読んでみたら、それは死を見つめるだけではなく、森鴎外論にもなっていた。すごい芸だと思った。文芸とは、突きつめれば文章でする芸のことなのだ。
その『切腹考』で、米国に長年住んで夫を看取った伊藤さんが、本作『道行きや』では日本で大学の先生になっている。やはり英国に住んでいるわたしには、日本語の世界に戻った彼女のささいな言葉に対する気づきや戸惑いが抜群におもしろい。例えば、日本の人たちが往来で交わす挨拶が、「おはようございます」「こんばんは」ではなくて、「ざっ」とか「わ」になっていることに彼女は気づく。しかし英語にも「よい日をおくってください」の短縮形、「よいひとつを」があることを思い出し、「ひとつを、とはなんだ」と考え込んだりするのだ。
また、伊藤さんの文章の中には英単語がカタカナで入ってくるときもあり、「感覚がナムする」の表記などはちょっと他人ごととは思えない(わたしもよくこういうことをやって編集者を困らせるから)。でも、「numb」の末尾のbを発音しないところなどいかにもぼーっとなった様態を言い表す絶妙の言葉で、「麻痺」というかっちりした画数の多い漢字にしたくない気持ちはわかる。
同様に、思わず頷いたのは「私はあなたをミスする」という表現だった。間違うという意味ではない。「ミスする」とは、何かが欠けているということ。その不在が感じられること、それが埋まらないということだ。日本語では「何かがなくて不自由する」とか「寂しい、恋しい」と訳されるが、どれもあの言葉を的確に言い当てられない。
このように日本語には変換できない言葉を抱えて帰国した伊藤さんは、大学でSNS世代の学生たちから酷い言葉を浴びせられたり、講義への苦情を寄せられたりして落ち込み、また立ち上がって奮闘する。「短詩型文学論」のクラスでは説経節の道行きを語ることにした。伊藤さんが初日に学生たちに出した課題は「ロードムービー、ロードノベル、ロード漫画、考え得るかぎり、どんなのでもいいから」だった。
ここで読者は気づかされる。世界に散らばる友人たちや熊本の人たちや東京の学生たちや犬との日常を描いたエッセイをまとめた『道行きや』もまたロード文学だったのだと。米国、東京、熊本、ポーランドと舞台を移しながら、いろいろな場所を通り過ぎてきた伊藤さんは、動くことでそれらの場所を失ってきた。そこで出会った人々や風景や出来事や食べ物は、現在の彼女の生活から欠けている。人は移動し、先に進むことで、様々なものを無くし、「ミスする」。
大好きな人や友だちの犬に会えなくなった愛犬の姿を眺めながら、犬が不在を確認する気持ちを、伊藤さんは「『無い』、『い無い』」と代弁する。これこそ「ミスする」の邦訳にふさわしい日本語だ。この作品は、「miss」という日本語にはならない言葉を日本語化する試みだったのではないか。「動き、進む」ことと「ミスする」ことは同一であり、それは生そのものでもある。生き残ることは、記憶することだからだ。『切腹考』で死を見つめた伊藤さんは、『道行きや』で生きて「在る」ことを書いた。
こうして冒頭の編集者とまったく同じ感慨をもってわたしは本書を読み終えた。バラバラに転がっているように見えた小石が、いきなりクリスタルの数珠になって目の前にあった。いみじくも伊藤さん本人が、「どんなに飛んでも最終的には行くべきところに行き着く。それが芸である」と本書中で明かしている。これはもう彼女にしかできない芸であり、その巧みはジャンルとかそういうものを軽く超えている。この芸って、いったい何なのですか? と訊いたら、きっと伊藤さんはあのチャーミングな笑みを浮かべながら答えるに違いない。
「ぜんぶ、詩なのよ」と。
(ぶれいでぃ・みかこ ライター、コラムニスト)