書評・エッセイ

2020年5月号掲載

十ヶ月のドラマの背後に広がる悠久の歴史

安部龍太郎『迷宮の月』

芳地隆之

対象書籍名:『迷宮の月』
対象著者:安部龍太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-378810-2

 藤原不比等(ふじわらのふひと)から日本と唐との国交回復という密命を受けた執節使・粟田真人(あわたのまひと)をはじめとする遣唐使使節団は、荒波を越えて中国を目指した。
 時は七〇二年。その約四十年前、日本の天智天皇は、唐と新羅に滅ぼされた朝鮮半島の国・百済を再興させようと四万の軍を送ったものの、白村江の戦いで唐に大敗を喫した。
 それ以降、日本は唐との外交関係を絶っていた。
 真人のミッションは二つ。関係が途絶えている唐との国交を回復すること、そして唐の優れた制度、仏教や教理を学ぶために留学生や留学僧を送り届けること。しかも隣国からの朝貢外交を当然とみなす唐と外見上は対等な立場として条約を締結しなければならない。
 しかし、たどり着いた大陸の国は唐の治世下にはなく、則天武后を皇帝とする武周朝となっていた。
 真人一行は、貴族の門閥と科挙に合格した官吏に限らず、有能な人材が登用されたものの、やがて阿諛追従で権力にすり寄り、実力のあるライバルに対しては悪い噂を吹聴して蹴落とし、時には皇帝の怒りを買わせて処刑させるような側近たちに行く手を阻まれることになる。
 使節団のナンバー2である大使の坂合部宿禰大分(さかいべのすくねおおきだ)は「こんな国とはまともな交渉は行えない。潔く帰国すべきだ」と主張するが、交渉の席を蹴って退席すれば、百済の再興を目指す天智天皇に代わってその座に就いた天武に続き、唐の学問や文明を受け入れて、唐と比肩する国をつくろうとしている文武天皇の立場は危うくなる。不比等や真人は粛清されるだろう。真人は、交渉相手だけでなく、日本の複雑な権力闘争の上での綱渡りも強いられていた。
 武周の心臓部に真人が乗り込んでいく過程で登場する人物は誰もが忘れがたい。
 則天武后に恨みを抱く美しい王華、皇帝の後宮に仕えるため去勢して男性の機能を奪われた宦官、なかでも真人とともに難局を乗り越えようとする胡陽大、祭祀を司る礼部侍郎として真人の言動を秩序を乱すものと考え厳しく対処するも、自分と同じように国に身を殉じる姿勢への共感を隠さない杜嗣先、従者として常に真人の身を案じる山上憶良など。
 西域から来たという陽大の青い目からは、都・長安から西方へつながる遠いシルクロードの風景までもが広がり、憶良がつくる和歌は、真人がいくどとなく遭遇する困難を和らげてくれる。
 そう、真人の前にはいくつもの壁が立ちはだかるのである。それを呻吟しながら知恵を絞り乗り越える。八方ふさがりの状況が続くにもかかわらず、目的に向かって一歩、一歩、近づいていくことができたのは、真人に帰国後に出世をなどといった私心がなかったからだろう。それこそが彼を守る最大の武器であり、曇りなき洞察力が彼をして一世一代の大勝負に出ることを可能にした。
 真人はこの物語の最大のキーパーソン、則天武后の娘である美貌の太平公主に拝謁するまでにいたる。そして、彼女の一挙手一投足に魅惑され、目が眩みそうになりながらも、対立する武周派と復唐派との確執という皇帝が抱える難題を解決するための提案をする。
 わずか十ヶ月の出来事にもかかわらず、大河ドラマを見せられているような気持になるのは、物語の背後に中国が刻む悠久の歴史を感じさせるからだ。
 太平公主から驚くべき寛大な回答を受け取った真人は、自らの責務を果たすことになる。しかし、最後に彼女が真人の耳元で囁いた一言は、「われわれは日本という国の成り立ちの真実を明かすことで、いつでも治世を揺さぶることができるのだぞ」という脅しとも受け取れるものであり、それによって千年以上も前の物語は単なるハッピーエンドで幕を閉じることなく、読者を現代まで連綿と続く中国という巨大な迷宮に放り込むのである。

 (ほうち・たかゆき ノンフィクション作家)

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