書評・エッセイ

2020年5月号掲載

人間を更新する

萩尾望都 芸術新潮編集部編『萩尾望都 作画のひみつ』(とんぼの本)

最果タヒ

対象書籍名:『萩尾望都 作画のひみつ』(とんぼの本)
対象著者:萩尾望都 芸術新潮編集部編
対象書籍ISBN:978-4-10-602293-7

 多分10年ぐらい前、私は萩尾先生に個人的に何度か「物語の作り方」について相談をしていました。詩人である私にとって、物語とは異質なものでもあり、またそれゆえに強く心惹かれるものでもあります。なぜ、物語というものがこの世に必要で、人はそれを自然なものとして、水や光のように求め続けているのか。そこからわからなかったのだけれど、この世には物語があまりにもたくさんで、そんな本質的なことに改めて疑問を抱くことは、当時の私にはできなかった。詩人だから違和感を抱くのだと思った。自分が詩人としてだけではなく、物語を作る人間として、物語を見ることができれば解決すると思っていた。職能として物語を観察する目を養いたいと思ってしまったからこそこんがらがり、いつまでもその芯にたどり着くことができなかった。

 今思えば、どうして物語が必要とされるのかは、「人は生きているから」という答えがふさわしいと思う。人は人であるから、物語を求めるし、物語とは人のためにあるものだ。

 私が、先生に教えてもらったことは具体的なことから抽象的なことまで本当にたくさんある(本にまとめられたら良かったと今も思います)。特に心に残っているのは、先生の話を聞けば聞くほど、物語というものはより未知のものとなって、そして魔法ばかりを感じる、ということだった。そこにはたしかな技術や経験があるはずなのに、圧倒されるのはその奥にある「世界の確信」とも言えるような、運命的なものだった。物語にとって、作り手とは神様だ。世界の神様だけれど、本当は神が神であることを、試し続けるのもまた物語であるのだ。そうして、物語を読むのが人間である限り、神は神であるからといって、人間であることを手放すことはできない。

 神というものを想像することができるのは、あなたが人間だからであり、奇跡や才能や時の流れを目で捉えることができるのは、あなたがただ、人間だから。

 萩尾望都さんの作品に触れるとき、私は、神様のようだと思うことが多々あった、素晴らしい作品、途方も無い物語に触れたとき、それを作り出したのは神様に違いないと思うし、その実感は先生の話を聞けば聞くほど強化された。でも本当はどこかで神様ではない、と知っていて、人間がそれを作り出したことにこそ、人間として感動していた。人間であるのに、とか、そんなことではなくて、人間でなければ、この宿る神に気づけない、神様として生まれていたら私は物語というものを愛せていなかっただろうと思うからだ。物語とはどこまでも、人間が人間であることから生まれるものなのだ。人が神を超える瞬間が、物語という場には起こり得る。
 物語の緻密さとそれを伝える高度な構成に圧倒されるとき、「神を感じる」と私は書いたし信じてきたが、本当は、まるで最初から人間ではなかったかのように、人間というものの巨大さに圧倒されていた。

 物語には時間の流れがあり、それを語る人には関心によって他者を引きつけようとする力がある。漫画は絵として言葉として、人の視線やその根っこにある心を引きずり出そうとしている。人を知っている、人だからこそ書けるものが、人ではないかのような圧倒的な力で描かれる。漫画という形式がおもしろいのは、神様のように見える作者が、人間であることを感触を持って教えてくれるということだ。人間として読者に向き合い、人間として意識を物語に引き込もうとする手つきが見える、ということだ。人間であるということを、アップデートし続けるのが「物語る」ということなんだろう。
 この『萩尾望都 作画のひみつ』は、萩尾さんの漫画家としての仕事、技術にクローズアップしたもので、書かれていることに圧倒されながらも、その一つ一つの作品が一人の人間の思考によって紡がれてきたという実感を与えるものだ。崇拝であると思っていた感情が、極めて憧れに近いのだと、思い出させる、そうしてそのことを心から嬉しく思う私がいる。

 (さいはて・たひ 詩人)

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