書評

2020年6月号掲載

不寛容への抵抗

佐藤優『この不寛容の時代に ヒトラー「わが闘争」を読む

須賀しのぶ

対象書籍名:『この不寛容の時代に ヒトラー「わが闘争」を読む
対象著者:佐藤優
対象書籍ISBN:978-4-10-475216-4

 タイトルはみな知っているが、実際に読んだ人は少ない。『わが闘争』もそういう本のひとつだ。もっともこの本にかぎっては、敬遠ではなくタブーという意識が働くせいだろう。今あえてそのタブーに踏み込んだのが、本書だ。『この不寛容の時代に ヒトラー「わが闘争」を読む』のタイトル通り、ここ数年、資料で見る戦前・戦時中の空気を現実に重ねて感じることが非常に増えた。ポピュリズムが台頭し、不寛容と排除が蔓延したところに、今年のコロナ禍である。人と人の間に否応なく距離が生まれ、ネットでは毎日激しい批判が飛び交い、自粛の名のもとに相互監視、差別がはびこっている。
 高まる不寛容と排除が行き着く先を、我々は知っている。とはいえ広く知られているのは単純化された原因と結末だけだ。この「知っているつもり」「わかったつもり」が一番危険だ。当時の世相とヒトラーの思想が詰め込まれた『わが闘争』に今こそ相対(あいたい)する必要がある。なにしろ、発行当時は嘲笑の的だったこの本に書かれていたことを、ヒトラーは後に全て実行できてしまったのだから。
 しかし、『わが闘争』は非常に読みにくい。初読時、私は恥ずかしながら挫折したことを覚えている。獄中で口述筆記させたものゆえ無駄や繰り返しが多く、話があちこちに飛ぶせいだ。そもそもヒトラーの思想はさまざまな思想を継ぎ合わせたものなので、ナチズムを体系的に語ることは不可能に近い。しかし佐藤氏はパッチワークのひとつひとつを提示し、猛烈な読書家であったヒトラーがどの思想をどう解釈し継ぎ合わせていったかを、当時の世相およびヒトラー自身の体験と併せて丁寧に解き明かしていく。
 この本はもともと、2018年の新潮講座「ファシズムとナチズム」を文字に起こしたものだ。奇しくも『わが闘争』と同じく、話すための言葉が使われている点に意味があるように思う。
 ヒトラーは言う。「演説は書物より影響が大きい」。ヒトラー、そしてナチスはこれを徹底して貫いた。社会の底辺に生きる人々をつぶさに観察してきたヒトラーは、文字、すなわち知の効用を信じず、わかりやすい話し言葉だけが大衆に届き、動かしうることを知っていた。『わが闘争』は、だから大仰な語り言葉のままなのだ。
 本書は同じく話し言葉で語られるが、根拠を明示し、ウンベルト・エーコはじめ様々な思想をもって多角的に切り込み、展開していく。最初から結論ありきで、それを証明するために数々の事実や根拠のない思想を継ぎ合わせた一本道な『わが闘争』とは、当たり前だが明確に違う。この違いこそが、言葉と知をどう使うか、間違って使うとどうなるかという問いかけになっているのではないだろうか。
 佐藤氏は、TwitterやLINEで使われる言葉は、書き言葉ではなく話し言葉であるという。Twitterではかぎられた文字数の中、人の印象に残りやすいよう簡潔に、そしてインパクトのある言葉を選んで文をつくる。わかりやすいフレーズを繰り返し、聴衆にたたみかけていくヒトラーの手法と同じだ。ぱっと目に飛び込んできた、巧みな言い回しの短文に納得しそうになることもよくあるし、実際一気に拡散してパニック状態に発展するような現象も頻発している。
 どの時代でも、多くの人はわかりやすさを求める。そしてなにより人は本質的に不寛容なのだ。この不寛容とはエーコ曰く、縄張り意識、そして自分とちがうものへの本能的な嫌悪である。もともとプロテスタントとカトリックはお互い徹底的に殺し合い、このままでは共倒れだと悟ってはじめて併存という名の寛容に行き着いたと佐藤氏は語る。要するに寛容とは生き残るための手段として生まれたのだ。よって本質たる不寛容は、隙あらば顔を出す。現に今、誰も予想しなかったウイルスの災禍によって何が起きているかは誰もが知るところだ。このまま流れていけばどうなるかも含め。
 不寛容を抑えこめるのはただ教育であり、知性である。「わかりやすさ」へ疑問をもつこと、自分にとって正しいことも他人にとってはそうではないという視点を常にもつこと。これしか対抗手段はないという。
 あの時代におそろしく似てきたこの時代に個人がどう向き合うか。本書は、思考の恰好の助けとなるはずだ。

 (すが・しのぶ 作家)

最新の書評

ページの先頭へ