書評・エッセイ

2020年6月号掲載

世界を作るのは私たち

香月夕花『昨日壊れはじめた世界で』

瀧井朝世

対象書籍名:『昨日壊れはじめた世界で』
対象著者:香月夕花
対象書籍ISBN:978-4-10-353331-3

 四十代となったかつての少年少女が、小学生時代の奇妙な出来事を振り返り、自分の今を見つめ直していく――あらすじをそう説明すると、大人のための青春小説、あるいは再生の物語をイメージするだろう。だが、香月夕花(かつきゆか)の連作短篇集『昨日壊れはじめた世界で』にこめられた思いは、予想外に痛切で、読み手の心を射抜くものだ。
 地方都市の寂れた商店街。ここで父親が営んでいた書店を継いだ園辺大介は、事業拡大を目指すスーパーに土地を売り、店を畳むことを決めたばかりだ。そこにふらりと顔を見せたのが、小学生時代の同級生、仰木翔子。久々の再会で近況を報告するうちに、話は小学生時代の思い出に及ぶ。小学四年生の頃、数名の同級生で町の坂の上に建つマンションの屋上に行こうとして、奇妙な音のする最上階の部屋に上がり込んだことがあったのだ。そこにいたのは痩せた男で、彼は「実は、世界はもう、昨日から壊れ始めているんだ」「この世界にはあまりに諍いが溢れているから、今まで保っていたのが不思議なくらいだ」と口走り、その場にいた数名の前日の行動を言い当てる。翔子はその時に仲間は五人いたというが、大介は一人がどうしても思い出せない。そもそも彼らは遊び仲間などではなく、たまたま授業で一緒になっただけのグループであり、卒業後はそれぞれ疎遠になっていたのだ。
 物語は、その時に一緒だった仲間の現在の様子が一章ずつ語られていく。書店を畳み、妻とは冷ややかな状態で離婚寸前の大介。少年時代から窃盗癖を持ち、勤め先でも万引きを理由に閑職に追いやられ自主退職を迫られ、新たに採用された目の不自由な女性、日渡絵麻の面倒をみる日々を送る小菅稔。裕福な家庭に育ったが親からの愛情を得られず、父親の不動産会社が倒産するという困難を乗り越えて税理士となった武元律子は現在、父親の介護をしている。第四章では、大介に存在すら忘れられていた皆川恵が、実は母とともに父親から逃げてこの町にたどり着いたものの、その母親にも見捨てられて過酷な日々を送っていたことが明かされる。そして、第五章では再び大介の視点に戻り......。地方都市の現状や、さまざまな親子関係、窃盗癖や児童虐待、さらには宗教の教えが本当に人を救うのかといった、多岐にわたるテーマが盛り込まれ、さまざまな問いがこちらに投げかけられる内容となっている。
 思い通りに生きてきた人間は一人もいない。大人になってもまだ、こんなにも傷つかなくてはいけないのか、と思う。彼らが小学生時代に出会ったあの奇妙な男が告げた言葉を借りるなら、みな、自分の安全な世界が壊れていくのを感じている。それでも、稔の同僚の絵麻の「一度は、本当に壊れたのかもしれません。でも今は、また別の世界があります」という言葉に、読者もはっとさせられるのではないか。壊れたって、またリスタートできるのだというメッセージが、こちらにも伝わってくる。
 印象に残るのは、件の最上階の男の、「ほんの小さなことでも、いつか大きなヒビになって、世界を壊してしまうものだよ。些細な悪口や、誤解や、ちょっとした悪意、......一つの世界が滅びるとき、きっかけはいつも、小さな、思いがけないものなんだ」という言葉。世界とは、自分の内面世界とも、身近な人びとを含んだ世界とも、この大きな意味での世界とも受け取ることができる。
 読み終えた後、小学生時代の同学年の仲間たちの顔をいくつも思い出した。彼らのその後の人生を全部知っているわけではないし、もちろん、思い出せない人のほうがいっぱいいる。でも皆に当時も今もさまざまな事情があるのだと改めて思う。その一人一人が、今この世界を構成している。忘れていないあの人、忘れてしまった誰かの平穏を祈らずにはいられなくなる。
 市井の個々人の人生というミクロ的な世界を確かな強度で描くことで、彼らが、つまりは自分たちが構成するマクロの世界の平穏について思いをはせさせる物語。自分の世界をないがしろにせず、丁寧に作っていくことは、もっと大きな世界を作ることにも繋がる。その世界がたとえ壊れてしまっても、自分たちは、今日からでもまた新たな世界を作ることができる。そう思わせてくれる。ささやかな光景を描きながら、大きなものを与えてくれる物語だ。

 (たきい・あさよ ライター)

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