書評・エッセイ

2020年6月号掲載

うつによる薬物依存からの脱出体験記

上原善広『断薬記――私がうつ病の薬をやめた理由

上原善広

対象書籍名:『断薬記――私がうつ病の薬をやめた理由
対象著者:上原善広
対象書籍ISBN:978-4-10-610860-0

 かつて、ある月刊誌にうつ病をテーマにして三、四回短期連載したものが、この本のもとの原稿になっている。といっても元原稿は本書の第一章分にしかならないので、ほとんどは書き下ろしだ。
 元原稿があまり使えなかったのは、当時の私が日本の精神医療について無邪気(むじゃき)に信頼し、うつになったらとにかく病院に行こうという趣旨のことを書いていたからだ。雑誌掲載当時の私にとって、精神医療とは全幅の信頼がおけるものだった。
 初めて疑問をもったのは、二〇一〇年にうつだと診断されてから、服薬生活にはいって五、六年がたったときのことだ。以前より確実に状態が悪くなっていると感じたのがきっかけだった。
 これに気が付けたのも、私が原稿を書く仕事をしているからかもしれない。執筆というものは高度な頭脳労働になるので、脳機能が落ちると途端に文章能力も落ちてしまうからだ。私の場合は、普段なら起こさない細かな間違い、見落としが頻出していたので気が付いたのである。
 医療の専門家の言う通りにしているのに、なぜ悪くなっているのか。そう思うと、精神医療の問題点を指摘した書物は割合に出ているものだから、すぐに調べられた。しかしそれ以前の、疑問に思っていない頃には、そのような書物を手にしてもまるで興味がわかなかった。人間の志向というものは、実は大変に偏っていて危ういものだということについても、今回初めて思い知らされた。
 塗炭(とたん)の苦しみの中でようやく二年かけて断薬し、本書の執筆に入ったのだが、今度は一〇年ちかい服薬からくる後遺症で、原稿を書くどころか何も手につかなくなってしまった。小説と違ってノンフィクションなのだから、材料は目前のノートに記されている。なのにそれが書けないでいた。
 原稿を書くという作業が高度な脳機能によって成り立っていることを、肌身(はだみ)で実感させられた。若さゆえの勢いに乗って綱渡りを演じてきた道化者が、その途中でふと足元の奈落を見てしまい、怖気(おじけ)づいて先へ進めなくなってしまったような恐怖を覚えた。
 断薬から一年たって、ようやく原稿を仕上げることができた。常々いろんなテーマの本を書きたいと思ってはいたが、それが自分の断薬体験記になろうとは、死なずに生きていれば色々なことがあるものだと思った。古今東西の物書きが、酒を含めた薬物に溺(おぼ)れることは少なくないが、そこからの脱出体験記は意外に少ないようなので、本書を出す意味もあると思う。
 これまでの私は、実生活の役に立たないものばかり書いてきたから、自分のささやかな失敗譚である本書を出すことで、ようやく多少なりとも人のお役に立てるかもしれないと夢想している。それが自らの恥を晒(さら)すようなことであったとしても。

 (うえはら・よしひろ ノンフィクション作家)

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