書評
2020年7月号掲載
津村記久子傑作短編集
津村記久子『サキの忘れ物』
対象書籍名:『サキの忘れ物』
対象著者:津村記久子
対象書籍ISBN:978-4-10-331982-5
傑作だ。
先に読ませてもらった者から言うべきことはまずこの一言に尽きる。高校を中退し、千春は病院に併設の喫茶店で働いている。勤務時間が舞台の大半である。小説でよく見られるようなドラマチックなことがあるわけでない。千春はそもそも本を最後まで読んだことすらなかったが、それでも困ることはなかった。でも客が忘れた本がきっかけで読んでみようと思った。実際に読み、そのお客さんと初めておしゃべりをし、すると単なる「お客さん」ではなくその人の人生が、生きている時間が、感じられてきた。周囲の登場人物もイキイキし始め、千春の勤務時間は"人が生きている時間"になっていく。我々読者が思わず、生きているのはこっちだってば!とムキになってしまうほど登場人物達が生きているこの「サキの忘れ物」から、本書は始まる。
全九作、文芸誌から美術雑誌まで初出もバラバラ、時期もばらつき、内容もバラエティに富んでいる短編集だが全部すごい。二番目に読む「王国」ではぐっと年齢が下がり、幼稚園児の空想世界がメインである。大人の我々のような読者がまともに読んでられるか!などと思うのは最初の数秒だけ。一行目を読み終える頃には絶妙な語り方に読者はあっさり大人目線を放棄するだろう。カサブタが治るまでに過ぎない他愛もない時間を、まるで世界が誕生し消滅するまでの長い時間のように読者は受け取ってしまう。次の「ペチュニアフォールを知る二十の名所」では旅行代理店の担当者らしき人物の巧みな語りのために架空の世界を全部鵜呑みにしてしまっていることに我々が気付くのは読み終えた時である。登場人物達の方が我々よりも一枚上手なのだ。
「喫茶店の周波数」は閉店の二日前の日を、客の会話の断片などと共に一人過ごす客の話だが、会話の断片は現実のサンプリングのようであり、それよりも、店員とのレジ越しの最後の挨拶のしょぼさが我々読者を驚愕させるだろう。最後っ屁のような人間臭いノイズに満ちたあっけないリアルなやりとりに、生きてるのはこっちだっつーの!と、またしても活字の並びに向かって呟くことになる。続く「Sさんの再訪」では複数のSさんが語り手の現実を揺り動かすほどイキイキと遠慮なく活動し、「行列」は登場人物達だけが知っている"あれ"を鑑賞するために並ぶ長蛇の列の話である。怪しい設定だが、語り手は気にせず真顔である(と思える)。登場人物達の精神力、忍耐力に圧倒されるこの怪作に、我々読者も少しは生きているところを見せねばと震えつつもただ活字の配列をたどるのみ(何が何だかわからないまま不思議なことに面白く最後まで読めてしまう!)。「河川敷のガゼル」では河川敷に突如現れたガゼルを人間世界の社会や政治が取り巻き始め、浮き足立つが、だからといって「こうする」という方向が最終的に定まることはなく、ガゼルの名前が公募で決まっただけで登場人物達は読者にバレない程度にできるだけグダグダし続ける。小説というジャンルは油断するとすぐお行儀よくなってしまって名言さえ吐いてしまう場合があるが、それに逆らってグダグダして見せている(この作品、二十一世紀の現実世界そっくりだ)。
見た目からしておかしな「真夜中をさまようゲームブック」はゲームブック形式の短編であり、選択肢によっては何度も物語の外へ放り出される。容赦なく殺されることもあり、我々読者は「小説の中で生き抜くにはどうすればいいのか」をトレーニングしていることになるわけだ。「あるある」が好きな共感系読者には、ないないと敬遠されるタイプの作品だろうが、著者の果敢な遊び心が私は好きだしこういうのアリアリ!と共感する次第だ。最後の一編「隣のビル」もやはり傑作で、巻頭作と同様、勤務時間を"人が生きている時間"に変容させる作品であるが、隣のビルへの行き方がすごい。飛び移るのであるが、ゲームブックじゃないぞ!と読者は心の中で叫んでしまうほどである。無謀に思えるが実は慎重を期している。窓から見えたぬいぐるみの位置すら計算済みであって、全ての言葉が意味を持ち(伏線などというちゃちなものではなく)、平凡な言葉でありながらフォーメーションによって読者の感情を引き出すスペースをつくる。ところで新刊の本書の読者も百年経てばみんな死んでいる。傑作だからこの本は残るが「かつて生きていた読者」がこの本の文字の並びをたどった痕跡は残らない。我々読者はため息をつくほかないが、登場人物達はどんな未来の読者と出会うだろうというようなことを思うことはできる。九作品は全て、未来を読者に感じさせて終わるからである。