書評・エッセイ

2020年7月号掲載

バーネット/川端康成訳『小公子』(新潮文庫)刊行!

「此処ではない何処か」へ行く物語

北上次郎

対象書籍名:『小公子』(新潮文庫)
対象著者:バーネット/川端康成訳
対象書籍ISBN:978-4-10-221405-3

「十二国記」の18年ぶりの新作長編『白銀の墟 玄の月』が刊行されたとき、作者の小野不由美のインタビューが「波」11月号に載った。その中に、ちょっと気になるくだりがあった。
 子供の頃(中高生くらいまで)、一番お好きだった物語は何ですか? 影響を受けた作品や作家はありますか?
 との質問に対して、作者は次のように答えている。

 数え切れないほどあるのですが......。小学生の頃はバーネットの『小公子』が異様に好きだった覚えがあります。川端康成訳の本を貰って、事あるごとに読み返していました。ほかにあまり本を持っていなかった、というのもあるのですが。......と改めて振り返ると、小さい泰麒は、川端訳のセドリックの影響をもろに受けていますね。いま気付きました......。

 なに、小公子? 私は中学卒業まで本を一冊も読んだことがなかったので、児童向けの世界の名作を読んでいない。もちろん、書名は聞いたことがあるし、『小公子』のだいたいの内容も知っている。しかし読んだことがないのだ。
「十二国記」のファンとしてはすごく気になる。作者は「異様に好きだった」と言っているのである。これは、単なる「好き」というレベルではない。しかも、「小さい泰麒は、川端訳のセドリックの影響をもろに受けていますね」との重要な告白がある。「いま気付きました」というのは、とてもリアルだ。その影響は、作者の血肉となって普段は意識することがなかったが、質問を受けて初めて、体の奥のほうから幼少期の読書体験が表面に浮かび上がってきた、ということだ。これ以上、リアルな告白はない。
「十二国記」のファンなら、ぜひともその『小公子』を読みたい。小野不由美が幼い泰麒のモデルにしたというセドリックとは、それではどんな少年だったのか。
 折よく川端康成訳の『小公子』が新潮文庫から刊行されるというので、さっそく読んでみた。名作なのでその内容は広く知られているが、簡単に紹介すると、アメリカで育った少年が伯爵の跡継ぎとしてイギリスに渡ったあとの日々を描く小説である。イギリスにわたる前、アメリカにおける日々を描く章も全体の4分の1ほどあるが、頑固な老伯爵の心をほぐしていく後半が、読みどころと言えるだろう。
 幼い泰麒と、セドリックとの共通項よりも、どこが違っているのか、その違いをあげたほうがいい。まず、いちばん大きな違いは、セドリックにはアメリカに、食料品店のホップスおじさん、靴みがきのディックなど、親しい友人がいることだ。誰よりも愛しているお母さんもいる。さらに、イギリスに渡っても、誰もが心を開く存在である。邪悪な人間が登場しないわけではない。伯爵の財産を狙う悪党はいるのだ。しかしセドリックの「無限の愛」がその侵入を許さないのだ。
 一方の泰麒は、こちら、つまり蓬萊にいるときは高里要だが、こちらの世界に友はいない。その高校生時代を描くのが『魔性の子』だが、おもねる同級生はいても大半は気味悪がられるだけ。高里は幼いときに神隠しにあい、1年2か月後、お祖母さんの葬式に帰ってくるが、その後まわりで次々に人が死ぬので、両親も弟も彼を敬遠している。つまり高里要は誰にも愛されない存在なのだ。
 ここから先は推測になることをあらかじめお断りしておきたい。セドリックと泰麒を取り巻く状況はかくも異なるのに、どこに共通点を見いだしたのか。
 それはおそらく、「此処ではない何処か」へ行くことだ。友がいるかいないか、愛されているか愛されていないか。その違いを取り払ってしまえば、セドリックも高里要も、此処ではない何処かへ行く物語である。本来の自分がいるべき場所はどこか、という根源的な問いが、その底にある。
 もちろん、セドリックの物語は一直線であり、高里要の物語は複雑に入り組んでいる。その違いは当然ある。しかし違いを積み重ねれば、逆に共通項が見えてくる。これは、本当の自分を探す旅の物語だ。

 (きたがみ・じろう 文芸評論家)

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