書評
2020年7月号掲載
「愛の力」の呪いを断つ
一木けい『全部ゆるせたらいいのに』
対象書籍名:『全部ゆるせたらいいのに』
対象著者:一木けい
対象書籍ISBN:978-4-10-102122-5
眠りの呪いに囚われたお姫様が、王子様のキスで目を覚ます。そんな物語は、きっと現代の社会では笑われてしまう。女性は男性に助けてもらうもの、といった偏見を強化している。眠っている相手に同意もなくキスをするって暴力じゃない? 日々アップデートされる人権意識に引っ張られ、様々な批判が寄せられることだろう。
だけど、なぜキスで――ひいては「愛の力」で呪いがとけるのか。その思想に対する疑義は、まだとても少ない。八十年ほど前、世界初の長編アニメーション映画でカラフルな七人の小人に見守られつつ王子が姫にキスをして以来、私たちは「愛の力」に囚われている。真実の愛には力があり、事態を好転させる。好転しないならその愛は紛い物か、もしくは不足しているのだ。そう疑いもなく主張する物語は、世の中にあふれている。
一木けいさんは、そんな甘やかな「愛の力」の呪いを断とうとしている人だ。それがどんな荒涼とした光景を見せるとしても怯まず、勇敢に。
『全部ゆるせたらいいのに』はとあるアルコール依存症の父親と、その娘・千映の壮絶な愛と闘争の物語だ。いつも泥酔している父親から脈絡のない暴力と罵倒を受けて育った千映は、自分の家庭を持ってなお、彼の存在に苦しんでいる。仕事の憂さを酒で晴らす癖のある夫・宇太郎が泥酔して帰宅するたび、不安で仕方がない。いつか夫は父親のような支離滅裂な存在になって、娘の恵に幼い頃の自分のようなみじめな思いをさせるのではないか。自然と文句が募り、酒を呑みすぎないよう行動を制限しようとする千映に、宇太郎は問う。
「呑みすぎないようにって、誰のために?」
本書を貫く鋭い問いだ。親しい人が人生を破滅させかねない方向に歩き出した時、大抵の人はその行動を止めようとするだろう。誰のために? もちろん、当人のためだ。心配だから止める。正論だ。だがこの小説は、正論を踏み越えて問う。それは「当人がその行動を選んでいる」という事実から目をそらしてはいないか。他者を変えることの難しさと暴力性を、本当に理解しているか。
千映、千映の母親、そして千映の父親へ、章ごとに視点人物を変えて物語は進む。千映がまだ幼児だった頃の美しく幸福な時間。そして父親が酒に溺れてからの苦痛の嵐に巻かれた時間。同じ家族だと思えない変化に愕然とするが、なにより衝撃的なのは、幸福な時でも苦痛の渦中でも、この家族には愛があった、ということだ。
一つ誤解して欲しくないのだが、この作品はけっして愛を暴力の免罪符にしているわけではない。むしろ、人生は愛だけで救われるほど手軽ではないのだと、凍えるような鋭さで喝破している。
千映は繰り返し、壊れていく父親に関与する。暴力をやめるよう説得し、病院に連れて行こうとする。愛があるから、変化を期待する。愛があるから、彼の破滅に罪悪感を持つ。この作品において愛は眩い光であると同時に、愛しい者同士を拘束し、地獄に留め置く厄介な鎖だ。
「愛の力」なんてない。愛と力は別物なのだと、本書を読んでしみじみと思った。愛があっても、それが力になるとは限らない。そして力及ばずその人を手放しても、愛があり続ける場合もある。なら、変えることの出来ない他者を、私たちはどのように愛せばいいだろう。
お伽噺の時代が終わり、新しい個人と愛の時代が始まる。その先端を鮮やかに切り拓く、閃光のような作品だった。