書評
2020年8月号掲載
ことばは水だから
谷川俊太郎『ベージュ』
対象書籍名:『ベージュ』
対象著者:谷川俊太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-401807-9
人と人が距離をとるようになってしばらく時間が経った。直接人と会うことが極端に減って、最初に感じたのは、においが乏しいことだった。それがいいのか悪いのかは別にして、人と会って外に出ていると、いろんなにおいがする。マスクをしていることも関係しているのかもしれないけれど、においがなくなって、それがさびしかった。ついこのあいだまで、握手をしたり、言葉を交わしたりして、常在菌を交換して生きていたのに、急に、そういうことが悪いことのように思われている。家にいて、じぶんのにおいしかないのは、最初は安心したけれど、すぐに心許なくなった。外からやってくることばも減っていた。かといって、ニュースをみるのも疲れる。ことばは水のようで、外と内とを行ったり来たり、通り抜けて、言葉の流れができてゆく。ことばにたえず新鮮な水が流れるには、言葉を発したり受け取ったりする必要がある。
家にいる時間が長かったときに、本書をひらいた。読んでいると、部屋に、道ができる。誰かの朝に遭遇したり、能舞台の橋がかりを歩く、幽霊かもしれない老人をみているような気持ちにもなった。ひとがたずねてきたり、蛇口からひねる水の滴りをきいたり、ときにはいまは誰もつかうことのない「朕」という一人称が詩になってあらわれたりする。ふしぎな詩だった。朕と称していた中年男性が、后と狆と暮らしていた。いろんな声がきこえていて、家のなかにいるけれど、道がふえて、迷子になったような気持ちにもなる。それは不安な迷子ではなくて、迷えるのが楽しい道だった。
冒頭の「あさ」という詩は、くちにして読んだ。ひらがなが、ころころ舌のうえで転がるのが心地よかった。新鮮な水をたくさん飲んでいるような気がしていた。それぞれ文字には、音の顔があると思うけれど、ひらがなだと余計に、音の顔立ちがはっきりみえるような気がする。著者はそれを「文字にして書く以前にひらがなのもつ『調べ』が私を捉えてしまう」と書いていた。黙読していたとしても、音は目からもきこえる。
めがさめる
どこもいたくない
かゆいところもない
からだはしずかだ
だがこころは
うごく
(「あさ」)
どんな生きものも滅ぶことだけは決まっている。それはとても平等なことだと思う。平等は優しくはない。「文字も自然から生まれた植物の一種ではないか」と著者の詩にあったけれど、意味を追わず、文字と余白の動きを、ただながめたりもしていた。意味がほどけてとけて、水になってこちらにむかって、流れ出してくるようだとも思った。生活のなかに溶け込んでいた。湯をわかす、お茶を飲む、『ベージュ』を読む。ネットニュースでは、ひっきりなしに感染者数とか死者の数、「死」をおそろしく書きたてていて、憂鬱になった。脅かされる死と、いま私がとりあえず生きていることには、おおきな隔たりがあるように感じるから怖かった。
川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると
生まれる前から死んだ後までの私が
自分を忘れながら今の私を見つめていると思う
(川の音楽〔十四行詩二〇一六〕)
「川の音楽」は、いなくなるさきのことを読んでいるような気がしていた。本当は死はいつも生活の傍らに流れていて、距離があるわけではないことも思い出す。遠ざけようとするから怖くなる。私を構成している原子は、すぐにばらけて、また違うなにかへと受け渡されてゆく。そうして巡っているだけだと思うと、ほっとする。
詩集のタイトルは、「ベージュ」で、著者の年齢は米寿。ベージュは染めていない羊毛の色だ。その生成りは、「裸のことば」にも呼応している気がした。音がもたらす遊びも楽しい。
(あさぶき・まりこ 作家)