書評
2020年8月号掲載
第163回 芥川龍之介賞 受賞作!
記憶が重ねられることの価値
高山羽根子『首里の馬』
対象書籍名:『首里の馬』
対象著者:高山羽根子
対象書籍ISBN:978-4-10-104431-6
他のものはともかくとして、記録媒体については形のある所有をすることの価値はこの十年で完全に下落したと思う。コンテンツを所有することはなしにウェブを通してサーバから好きな時に好きなものを引き出していると、データをダウンロードして端末に所持するということさえ古くさく思えてくる。
じゃあ人々が所有の後、何に価値を置いているのかというと、おそらくそれは経験の共有で、今はかつてないほど個人がある経験を持つことがステイタスになっている。単純にこのことを要素に分解すると「経験」の「共有」となるのだが、じゃあ世間ではどちらに比重が置かれているのかというと、たぶん圧倒的に「経験」よりも「共有」に寄っていると思う。もはや経験そのものは共有の下位に存在するもので、共有されやすい経験にこそもっとも価値があるということになる。あとはもう共有の先着順と解像度と拡散の広さを競っているだけだ。
それでも共有されない記憶となった経験は無数にある。量的にはむしろそういうものの方が人間全体のほとんどを占める。共有されることのない、評価されることのない記憶には価値がないのだろうか? もちろんそんなことはありえない、ということを、本書を読了すると思う。人間そのものとその歴史は、共有されるかどうかは問われず積み重ねられた無償の記憶でできているということを、未名子(みなこ)という孤独な女性の小さな生活は強く思い出させる。
未名子は二十代半ば、沖縄の港川というところに住んでいる。順(より)さんという年老いた研究者が作った私設資料館の資料の整理の仕事を無報酬でつとめる傍ら、オンライン通話でクイズを出すことを仕事にしている。顧客は世界中の日本語を使える人々で、彼らはだいたいたった一人で生活している。彼らが何者なのかはすぐには語られることはないし、順さんという人物についても、未名子自身についてすら、十代の頃に不登校であったということぐらいしかしばらくの間はわからず、くどくどしく説明されたりはしない。記述が進められるのは、資料の整理をし、それらをスマートフォンのカメラで撮影し、クイズを出す仕事をし、そして台風の次の朝に自宅の庭にうずくまっていた馬の世話を始めるという未名子の細々とした行動の詳細だ。
他の誰にも共有されることも解釈されることもない未名子の生活は、だから価値がないというわけではもちろんなく、資料館での資料の管理の様子や、クイズを出すスタジオの細部についてなどはとても豊かに描かれていて、読んでいて楽しくさえある。未名子は多くを語らないでいながら、生活の変化の中で少しずつ行動を重ねるうちに、クイズの解答者たち、順さん、馬、そして沖縄という土地の記憶を自分の内部に通し、モニターのように小説の中に映し出し始める。その無口な忠実さ、自分の経験と他者の経験を秤に掛けて選別することのない謙虚さに、読み手はおそらく感動のようなものを覚える。
未名子がいつまで経っても「まったくかわいさを感じない」という馬に関してある時に持つ、「この茶色の大きな生き物は、そのときいる場所がどんなふうでも、一匹だけで受け止めているような、ずうっとそういう態度だった」という所感が印象的だ。この様子は未名子自身にも通じるものがあるし、彼女がクイズを出す、世界の各地にいる孤独な人々のことも想起させる。孤独な人々もまた記憶を持っていて、未名子の存在を通して彼らの記憶にふれる体験は、個人的には本書でもっとも興味深く読んだ部分だった。中でもいちばん日本語がつたないという、ギバノというシェルターのセールスマンの男性が、未名子が馬を見つけたこと、馬と関わってゆくことを打ち明けたのをきっかけに、自分の幼少期の草原での体験を溢れるように語り始める様子からは、記憶を持つということの嘆きとないまぜの喜びが強く感じられる。共有されることがなくても、または誰かと誰かという最小単位でしか共有されなかったものだとしても、記憶は個人の存在を支えるものなのだ。
順さんが資料館に溜め込んだ沖縄の資料が殊更に選別されていないものであることも、記憶の重要さに順位はないということを象徴しているように思える。馬に乗った未名子は、自分の見た沖縄、馬の見た沖縄を記録し、この世界の手に委ねることを決める。今日を生きることは記憶を重ねてゆくことだ。その蓄積の有様にこそ意味があり、それは本当に尊いものなのだと、本書は強く確信させる。
(つむら・きくこ 作家)