書評
2020年8月号掲載
隔たりを見つめることこそが優しさのときもある
中原昌也『人生は驚きに充ちている』
対象書籍名:『人生は驚きに充ちている』
対象著者:中原昌也
対象書籍ISBN:978-4-10-447204-8
世界と自分の間には距離がある、という、ごくごく当たり前のことが共有されない時代になった。カギカッコに入れた「世界」と、やはりカギカッコに入れた「自分」に隔たりがあるといえば、多少は納得してもらえるのだが、それでは意味が全然違う。カギカッコに入れない、いわば生の状態の世界であるとか、自分というものを想像したり実感したりすることが難しい時代なのである。つまり、精神が、魂が、危機的な状況にある。
このような惨状はもちろん、日本だけに見られる現象ではない。と言いたいところだが、ここまでの堕落、ここまでの荒廃を日々見せつけられては、絶望するなという方が無理であろう。だから、すべてをカギカッコに入れて遁走を図りたくなるのも分からないでもない。だがそれではだめだ(遁走に次ぐ遁走を繰り返している人がリアリストをもって自任していることが多いのにはいつも驚かされるが)。
そうではなくて、我々は今こそ世界と自分の間の距離が、そのときどきでどのように変化しているか注視するべきなのだ。
中原昌也は世界と自分の距離を常に見据えている。正直なところ、それ以外に世界を認識する方法がないからだ。そのためには全てに対するおそるべき誠実さが必要だ。
本書に収録された対談の一つにはこうある。
「でも怠惰であることも誠実さをもってやっているつもりなんですけどね」
これは自分をカギカッコに入れることを決してよしとしない立場があって、初めて言明できることである。
「あ、なんかいま会場から失笑が起きていますが」と中原は続ける。公開の場の対談だったので、先の発言をユーモアと取った観客が笑ったのだろう。ここでは、生の(raw)言葉が、あたかも最初からカギカッコに入った(processed)ものとして受け取られてしまっている。「失笑が起きていますが」という控えめな異議申し立ては、その断絶へと向けられている。見つめられているのは距離そのものである。
小説の中において、あるいは震災後の福島で、バラバラ殺人の現場で、郊外の巨大ショッピングモールで、コロナウイルス禍の予感にわななくフランスで、中原昌也は世界と自分の距離を確認し続ける。たまに、奇跡的にその距離が好ましく感じられる瞬間がある。距離による断絶や不可能性を飛び越えて、生の手触りが実存に到達する。
もしくは到達せずに、世界はよそよそしい距離を保ち続けるだろう。それはそれで同じように驚くべきことだ。人生が驚きに充ちているということの理由を、鮮烈な一瞬の体験に帰するのは誤りだ(それはサイケデリック・ドラッグや宗教や恋愛がもたらす錯覚である)。倦んでいようが、退屈していようが、誠実に倦み、誠実に退屈している限りにおいて――それは概念や事物をカギカッコに入れないということだ――人間は世界と正面から対峙することができる。
「僕は、都市にいてもこのような荒野を幻視する癖がある/廃墟は、あの手この手で覆い隠そうとしても、どうしても現れ、見えてしまうし、自然もまた繰り返しヒトにそれを見せようとする」
カギカッコ付きの「世界」は、このように迫っては来ない。愚鈍で怠惰な精神は何もかもをカギカッコに入れることで「世界」をコントロールできる、という幻想に自ら囚われ続けている。違う! あたりをしっかりと見回してみろ! 何もかもが腐り果て、ぐずぐずと崩れ落ちつつあるじゃないか! カギカッコ付きの「自分」を写す、あの都合のいい鏡でさえも......。
と、つい声高に叫んでしまうのはぼく自身、ふと気がつくと自分をカギカッコに入れてしまっているからだ。懸命に努力はしているが、カギカッコをとっぱらった状態でものを見つめ続けるのはそれほど難しい。カギカッコ入りの「自分」はむき出しの世界のよそよそしさに耐えられるほど強くはない。だからこそ、個人個人がカギカッコの呪縛から解放される必要がある。
本書は言葉のまったき意味において、ひとりの精神の克明な、優しさ溢れる記録である。世界、あるいは他者との間に厳然とある距離について、節度を持って受け入れる態度は、優しさとしか表現できない。それはすべてを無反省にカギカッコに放り込み、自分と他者の境界線を無遠慮に踏みにじる恥知らずな粗暴さとは対極の、どこまでも人間的なあり方に違いないからだ。