書評

2020年8月号掲載

『エレホン』EREWHON 刊行記念特集

綺麗に解釈できない。だから、なぜなら……。

サミュエル・バトラー『エレホン』

東畑開人

対象書籍名:『エレホン』
対象著者:サミュエル・バトラー/武藤浩史訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507151-6

 読んでいると、頭がねじれてくる本だ。だから、読んだことのある誰かと話をしたくなる。実際、私も読み終わってすぐに、この本の担当編集者氏に話をしたいともちかけてしまった。もちろんZoomで。感想戦は盛り上がった。私たちは違ったところにひっかかっていたから、解釈が違って面白かった。そして、なにより、飛沫を共有することなく、道徳的に話ができたので、深い満足感があった。まるでエレホン国の住民のように。
 最初にこの本の全体を紹介しておこう。これは冒険小説だ。『ガリバー旅行記』のように、主人公は未知の国へとさまよいこみ、そして帰ってくる。それ自体はありふれたプロットかもしれない。だけど、この本の真の魅力は、この未知の国エレホンの独特で精緻な設定にある。
 エレホンは美しい。住民は皆美男美女で、礼儀正しい。自然は美しく、街は清潔だ。それはユートピアのように見える。だけど、その美しさはあらゆる価値の反転によって成り立っている。たとえば、機械の全面廃棄を行った「機械の書」、まるで死にゆく宗教のような「音楽銀行」などなど、価値の反転は精緻なディテールをもって描かれている。
 なかでも、心理士を生業としている私にとって面白かったのは、エレホンでは犯罪が医学的問題になり、病気は道徳的問題とされていることだ。殺人や横領を犯しても、刑罰を受けることはなく、矯正師と呼ばれる専門家の治療を受ければいいのだけど、結核になれば牢屋に投獄されてしまうのだ。だから、体調を崩した女性は道徳的非難を浴びないようにアルコール嗜癖を装う。
 ここには「自己責任」の反転がある。エレホンでは不幸ほどの悪徳はない。不治の病、遺族、犯罪被害者は死刑に値するほど悪しきことだ。だけど、私たちの社会で自己責任が問われてしまうような犯罪は、「運が悪かったのね」で済まされる。
 著者であるバトラーは、自分が生きていた19世紀末イギリス社会の反転をエレホンとして描いた。だから、『鏡の国のアリス』のようにアベコベを楽しめばいい、普通に考えればそうだ。だけど、ここで頭がねじれてくる。なぜなら、エレホンは21世紀の私たちの社会にとってはただのアベコベではないからだ。いや、むしろ、それは写し絵だ。
 たとえば、犯罪は現代においては医学的問題に変わりつつある。違法薬物使用に必要なのが治療であることは現代のメンタルヘルスケアの常識になりつつあるし、虐待や犯罪の背景には貧困があることも社会的な合意を獲得しつつある。だから、犯罪や道徳性の欠如を「自己責任」と言って切り捨てないエレホンは、私たちの社会のお手本に見える。エレホンの矯正師が、私にはとても他人には思えない。
 同じように、病気が道徳的問題とされるのも、コロナウィルスの感染が激しい社会的非難の対象となった現代を彷彿とさせる。それだけではない、肥満や癌など健康上の問題は、食、運動、喫煙などの習慣による自己責任とされ、道徳の文脈に組み入れられている。現代社会のもっとも残酷な部分をエレホンは体現している。
 エレホンはユートピアなのか、ディストピアなのか。それは私たちの社会の反転した姿なのか、それともただありのままを映した姿なのか。その両方なのだ。ある部分は反転で、ある部分はありのままの姿なのが、エレホンだ。ここで読者の頭がねじれてしまう。綺麗に解釈ができない。だから、話をしたくなる。それが『エレホン』という小説だ。
 そして、わかった。編集者氏とZoomで話してわかった。エレホンはねじれた鏡なのだ。それはデコボコで、しかも不規則に歪んでいる。だから、像は乱反射する。つまり、読者がどこに立っているのかによって、エレホンはユートピアに見えたり、ディストピアに見えたりする。
 だけど、よくよく考えてみると、エレホンがねじれた鏡であるのは、私たちの社会もねじれているからだ。今、私たちの社会には優しいところもあれば、残酷なところもある。その社会は私たちの人生を支えてくれてもいるし、それを押しつぶしてもいる。私たちの社会がユートピアでもありながら、ディストピアでもあるから、エレホンもその両方を兼ね備えている。19世紀末から21世紀の間に、社会ははち切れそうなほどにねじれていったのだ。
 エレホンには機械がないからZoomがない。コロナウィルスに襲われたらどうするのだろう。機械という悪をとるのか、病気という悪をとるのか。二つの悪の狭間で、何をすれば善になるのかわからない。私たちの社会がエレホン的であるとは、そういうことだと思う。

 (とうはた・かいと 臨床心理学者)

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