書評・エッセイ

2020年8月号掲載

特別エッセイ

あれ、それ、これ

近況と新作『雪月花 謎解き私小説

北村薫

対象書籍名:『雪月花 謎解き私小説』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406615-5

 本誌、本年二月号に、昨年十月に新潮講座で行なわれた柳家喬太郎さんとの対談を載せていただいた。題して、
 ――「落語の本質」って何でしょう!?
 喬太郎さんに『綿医者』という噺を語っていただき、さて、わたしは、こんな風に口火を切った。

  お腹に傷があるので、笑いながらちょっと痛がってる、という場面がありましたね。あそこでアメリカの小噺を思い出しました――マフィアが活躍した時代のシカゴかどこか、非常に荒れ果てた町で、男が腹に弾を撃ち込まれて血みどろになりながら、グアーッと苦しがってるんです。偶然通りかかった人が怖がりながらも近づいて「大丈夫ですか、痛みますか?」と聞くと、男は苦悶の表情で「ええ、笑うと余計痛むんです」。

 解説するのも馬鹿げているが、不条理なところに面白さがある。気持ちが悪い――だの、あり得ない――だのいっても仕方がない。まさにそこがおかしいのだ。確か、「ミステリマガジン」のコラムで読んだような気がする。
 しかし、通じない人には全く通じない。これを喬太郎さんが、《ああ、いい小噺ですね。洒落てますね》と受けてくださったので、大変、嬉しかった。
 ところが、その後、あることを調べるために和田誠さんの『お楽しみはこれからだ』全七冊を通読した。最近では、読んだ内容をすぐに忘れてしまう。ざるで水をすくうようだから、今のうちに書いておく。
『PART4』まで来て、愕然とした。グレン・ジョーダン監督、ニール・サイモン脚本の『泣かないで』について、こう書かれていた。

  そんなこんなでニール・サイモンお得意の泣き笑いが続く。この作品はやや泣きの要素が強く、日本題名も「泣かないで」だが、原題は「笑う時だけ」である。この原題がとても気が利いているのだが、その由来は一つのジョークなのだ。次の通り。

 「胸に槍がささった男がいる。もう一人がきく。"痛くないか?"...男は答える"笑う時だけ"」

 人は誰も耐え難い哀しみを抱えて生きている――という比喩になっている。実に見事だ。さすがはニール・サイモン――と感心するところだが、わたしの記憶する《あのジョーク》とのかかわりが気になった。いうまでもなく、この手のものは作者不明となり、形を変えて拡散する。より高度なのはサイモン型だが、路上の男型にも愛着を感じる。
 さて、その喬太郎さんがNHKの『SWITCHインタビュー 達人達』という番組で対談をしていた。お相手が美学者の伊藤亜紗さん。そこで喬太郎さんは、生まれ変わりについて語り、こうおっしゃった。
 ――ミジンコとかになってみたい。クジラに食われてみたい。
 わたしはそこで手塚治虫を思った。『火の鳥 鳳凰(ほうおう)編』の中で、仏師茜丸は、幻想の中で輪廻転生を経験する。
 唐へと渡る船が沈み、溺れ死んだ彼は、ミジンコになる。そして大きな魚に呑み込まれるのだ。さらに長江の亀となり......と、転生は続く。
 腕(?)を振るミジンコの絵は印象的だ。喬太郎さんの頭の中を覗くわけにはいかない。しかし、人生のどこかで、喬太郎さんも『火の鳥』の、同じこのページを開いていたような気がする。
 さらに芥川龍之介を思う。芥川はいう。牛馬に生まれ変わり悪いことをして死ねば、神仏は自分をスズメやカラスにするだろう。性懲りもなく、まだ悪さをすれば、さかなかヘビになる。それでも悔い改めず、順繰りにやっていってバクテリヤにまでなったら、さて神仏はどうするか。ちょっとやってみたい気はする。
 いかにも芥川的だ。畜生道に落とされて、
 ――牛になっちゃったよ。畜生!
 などと洒落ていたら、神仏も怒って、まだこりないか、とエスカレートするだろう。この芥川的妄想を演じる喬太郎さんも、ちょっと見てみたい。これは、わたしの《妄想》である。
 あれからそれ、それからこれ。要するに人のいとなみは、何事も何事かに繋がっていく。

 (きたむら・かおる 作家)

「波」に掲載した短篇小説、「ゆき」「つき」「はな」など六篇を収録します。

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ