書評
2020年9月号掲載
『雪月花 謎解き私小説』刊行記念特集
愛の小説
対象書籍名:『雪月花 謎解き私小説』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406615-5
小説家、研究者として大きな仕事をした和田芳恵は、編集者でもあった。新潮社時代を回想した『ひとつの文壇史』(講談社文芸文庫)に、大流行作家三上於菟吉(おときち)の言葉が引かれている。三上は『雪之丞変化』の作者。早稲田の先輩、近松秋江について、こう語る。
「どこか、新聞に歴史小説を書きたいから、よろしく頼むといわれたんだよ。この先輩には、ふしぎなヘキがあって、三上の小説はつまらないからやめろ。近松秋江先生に、どうして、新聞小説を書かせないのだと新聞社に投書するんだ。一読者よりと書いてあるが、はがきを見せられると、近松さんの字だから、僕には、すぐ、わかるんだ」
近松は『黒髪』などのいわゆる情痴小説で知られる。女とのかかわりを事実そのままに書くタイプの《私小説》を代表する作家の一人だ。かなり困った人だったらしい。
正直いって、今、近松のその方面の小説を読もうという気には、あまりならない。
だが、こういう《投書》の話には動かされる。男と女がどうしたこうした――より、小説家としてのそういう執着を赤裸の心で描いてくれたら、現代でも読める、力のこもった作品になったろう。
ここで、ふと思うのはジョージ・ロバート・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』である。岩波文庫、平井正穂の解説によれば、本国イギリスにおいても版を重ね、我が国でも大正年間に紹介されて以来、読書人に愛され続けているという。
ギッシングはその序において、これは、ひっそりと逝った、本を愛する者の遺稿であるという。その通り、片田舎で紡がれた英国の『方丈記』であり『徒然草』である。豊かではないが生活に足る金を、思いがけず得たヘンリ・ライクロフトの安らかな生活。
若き日を回想し、《その頃の私にとっては、金の意味は本を買うこと以外にはなかった。(中略)矢も楯もたまらぬほど欲しい本、肉体の糧よりももっと必要な本というものがあった》と、彼はいう。食べるものを食べなくても、本を買わずにはいられなかった。
そして今、カタログで注文した本が届き、手をふるわせながら小包をほどく時の喜び。《私は希覯本(きこうぼん)をあさる者ではない。初版本や大型本なども問題にしない。私が買うのは文学書、すなわち人間の魂の食物なのだ。一番内側の包装紙がめくられて、装釘(そうてい)が初めてちらっと見えたときのあの感じ!》。
この人間像が根底にあるからこそ、愛され続けて来た私記だろう。しかし、《ヘンリ・ライクロフト》はギッシングにより創造された人物である。彼が、つれづれなるままに綴った――という形の創作だ。土左日記の作者が紀貫之であるようなものだ。非在のライクロフトの心は、ギッシングその人のものである。いうまでもない。その真実性が読者をうつ。
《事実》を書くのが随筆――と思うのは、いたって素朴な読者だけだ。随筆にも、さまざまな形で虚構は侵入する。教科書に載っているような、よく知られた小文中にも、そういう例はある。より語りたいことに近づくためなら、随筆でも平気で《嘘》が語られる。それが正しい道なのだ。
ジャンル分けなど意味のないものとは思うが、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は何に分類されるのか。随筆かどうかの二択でいえば、より小説に近いのではないか。
ギッシングには、いかにも短編らしい短編群がある。こういう作品を読むのは、まことに嬉しいものだ。その一方で、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は日本の私小説的手法で、自分を描いた一作とも思える。であるからこそ、変わらず人々の心をつかんで来た。
私小説の方法は、情痴小説や家庭の葛藤を描くことにのみ適用されるものではなかろう。
人間の愛や情熱は、さまざまなものに向かう。文字を表現の手段とするものなら、その対象が本を指すのは、いたって自然だ。愛の小説には、そういう形もある。
(きたむら・かおる 作家)