書評
2020年9月号掲載
他人の不幸のある世界
前川裕『愛しのシャロン』
対象書籍名:『愛しのシャロン』(新潮文庫版改題『号泣』)
対象著者:前川裕
対象書籍ISBN:978-4-10-101463-0
他人の不幸と堕落の癒し効果――。この言い回しの妙に、夜の世界の倒錯と救いが凝縮されているような気がした。
物語の中心となる、目を逸(そ)らしたくなるような特異で不運な過去を持つ若い女・百合(ゆり)は、金銭的な理由に加えて、男性が苦手という性質によって歌舞伎町の「男装ホストクラブ」で働いている。夜の街にはそもそもある種の価値の混沌のようなものがあるが、ホストクラブにも独特の異常さがあり、自他ともに騙されているという認識がある者が威張っていたり、たくさんのお金を使う者と使わない者がそれぞれ別の理屈でプライドを維持していたりと、時に一般的な社会とは全く違う物差しで人間が評価される。そこに、男性ではなく男装した女性が接客するというさらにもう一層のねじれが加われば、価値や基準はもはや無重力で、道徳や常識は如何様(いかよう)にも変わる。
さらに、彼女は2人の、やはり夜の街に棲みつく女と一つのアパートで共同生活を送っている。3人の人生の物語は今現在夜の街に辿りついたことを除けば全く異質なもので、それぞれがそれぞれの不幸を背負っている。事情があって夜の街で働きながらも性格的に潔癖な百合は、生真面目であるがゆえに周囲に対して批判的になりがちである。母親の金銭的な搾取から逃れられない真優(まゆ)は、容姿にはそれなりに恵まれているが、生きるのに致命的なほど人が好(よ)く、それは時に百合を激しく苛立たせる。唯一の大卒である累(るい)の外見には魅力がなく、自分勝手でだらしない。
この3人、さらに言えば百合の勤めるホストクラブのホストなどを含めた夜の女たちの微妙な心理状態のバランスがこの作品序盤の大きな魅力であることは間違いない。ピンサロで稼げない累は、経済的には人の好い真優にすっかり依存しているが、「ホストクラブやピンサロだって、ソープよりはましでしょ」と言い捨てる。自分も水商売に身を投じながら、百合は「寄生虫みたいな生活は嫌だ」と夜の世界全体をどことなく軽蔑している。真優は表面上は誰にも良い顔をするが、自分の母親と同種のだらしなさを持つ累を心配しているだけでなく、裏では結構批判する。人の不幸を見たくないという心理と、不幸な人を見ていたいという心理が交差する様はとてもリアルで、歓楽街に深く堕ちたことのある者であれば大いに身に覚えがあるものだ。なぜならそこは、日中の街の中では巧妙に隠された人の不幸や、出る幕を窺っている病理が表出する場所だから。
しかし絶妙なバランスで保たれている場所や関係は、些細なきっかけで簡単に破綻への道を転がり出す。この物語も、共同生活や男装ホストクラブの崩壊とともに高速で展開を始め、いくつかの裏切りと意外性を通りながら、想像とは違うラストへと導かれる。引っ張られるように読んでしまう後半は、夜の街や女たちの心理交差から、男たちの物語へと変わっていく。しかし、そこにも貫かれる大きなテーマは「不幸」だ。異常性愛や身勝手な犯罪の合間に、「不幸なヤツは、もっと不幸を極めろ」「弱者は死ね」という大仰なメッセージが見え隠れする。
人の不幸が許せない、弱者はどんどん弱くなれというメッセージは、単なる異常な犯罪者の叫びには聞こえない。この感覚がいつ頃から形を帯びて目に止まるようになったか、それは覚えていないけれど、そんな言葉が今にも飛び交いそうな危うさは、炎上騒ぎにおける異様な罵り合い、政治家の不明瞭な話ぶりとそれによって巻き起こるヘイトスピーチなど、現在を生きる上で多くの人が感じているものだ。特段耳を澄まさなくとも聞こえてくるメッセージに、怯(ひる)んだり、こっそり同調したり、完全に胸をえぐられたりしながら、なんとか生きざるを得ない。
そう考えると、本作序盤にあるような、けして褒められない心理バランスは、この世界に、非道徳な形で一つの救いを与えているような気さえしてくるのだ。誰もが時にどうしようもない不幸を持たなければいけない残酷な現実を生きる時に、隣人の不幸を意識せずにいるのは難しい。他人の不幸は気が滅入るが、時にそれに安堵を感じてしまう自分にこそ気が滅入ることもある。互いの不幸を利用しながら生き延びるという、あまりに狡猾な生き方は、もちろん半分の解にしかならないけれど、時に逃げるべき場所に逃げ込むべきかもしれないと、思いの外(ほか)温度のある結末を読みながら思った。
(すずき・すずみ 作家)