対談・鼎談

2020年9月号掲載

「波」名対談撰

小説のおもしろさ

筒井康隆            中島梓 

TVアニメ化で再び話題の『富豪刑事』(累計部数百十万部突破)、原作刊行時の「物語作家」同士による貴重な対話!
初出「波」一九七八年五月号

富豪刑事シリーズ

中島 『富豪刑事』(現在は新潮文庫)を大変面白く拝見しました。キャデラックを乗り回し、ハバナの葉巻をくゆらせ、金を湯水のように使って事件を解決していく、あの神戸(かんべ)大助というキャラクターは非常にユニークですね。

筒井 あれはシリーズとして書いた四編を収めていますが、書き始めたときの意図とはだんだん違う方向へ行っちゃったんです。どうしてもフォーマットに縛られるんですね、ああいうシリーズものは。繰返しの面白さを狙って二度目に使うと、それがフォーマットになってしまって、三度目も四度目も使わなければならなくなり、筋が限定されてしまう。

中島 それは筒井さんとしては予想外だったわけですか。

筒井 あれほど縛られるとは思わなかったですね。あそこでは富豪刑事をナイス・ガイに描いているので、本人の意識しない金使いの荒さがどれだけ他人を傷つけるかとか、あるいは大金持の犯人との浪費競争になって破産するとかいう話が書けなくなっちゃったんです。

中島 するとあのシリーズの続きはもうお書きにならないんですか。

筒井 もし書くとしたら、あのフォーマットを全部崩さなければだめですね。例えば、貧困に苦しんで、しょうことなしに罪を犯した犯人を、大金持の刑事が湯水の如く金を使って追いつめるブラックな面白さなどは追求してみる価値があると思う。ただ、それをやると......。

中島 あのシリーズとは別のものになっちゃいますね。

筒井 "七瀬"の三部作みたいになるでしょうね。あれは七瀬を主人公にしていても一つひとつ違いますから。僕はシリーズものには向いていないんですよ。

中島 しかし、ああいう名探偵ものの連作は、書いていらして楽しいでしょう。

筒井 二話以降は苦しみでした。書いていて自分で面白くないものは、僕は書かないんです。ところがシリーズものは読者を楽しませる為の形式なので、一所懸命自分を面白がらせるのが大変なんです。

中島 シリーズものというのは、メリット、デメリットの両面があるでしょうね。読者にとっては親しみのある登場人物が毎回登場して、続けて読めば長編小説を読んだような手応えがある。これはメリットだと思います。

筒井 デメリットの要素は僕自身の中にあって、僕自身にはね返ってくるんですね。それほど推理小説の骨法を心得ているわけではないし、トリックを考えるのだってそんなに好きではなかったですから。

中島 しかし推理小説の押えるべきところは、きちっと押えているという気がしましたけれど。

筒井 SF以前は推理小説を読むしかなかったので、一応のことは心得ているつもりですが、やはりしんどかったですね。で、四編書くのに二年半かかりました。時間をかけないと、トリックが固まってこないんですね。

中島 筒井さんの場合はトリックを先にお考えになります? それともシナリオの箱書きみたいなものが先ですか。

筒井 プロットとか箱書きとかいうものを書くと、かえってだめですね。大金持であるということを、ストーリーの展開なりエピソードなりに、できるだけ利用して書いていきますね、その場合、書いたことを読み返しながら伏線になりそうなものはすべて因果律に変えてしまう作業があるんです。

中島 でもそうすると後の方で説明しきれなくなったり、特に長編ミステリーの場合なら、あとで混乱したりということになるんじゃないでしょうか。

筒井 短編だからこそできるんですね。長編だと、あとで重大な欠陥に気がついて、直しだすと、そのためによけい穴が大きくなることがあります。これは何もミステリーに限ったことではなくて、普通の小説でも、書いた時点から半年なり一年なり経ってから、ゲラで手を入れる場合、よほど慎重にしないと......。

中島 久生十蘭というひとは、徹底的にいじったという伝説がありますでしょう。三十回だか四十回だか書きなおして、できたときは十分の一になってたとか(笑)。

筒井 僕の場合、ずっとあとで発見した穴を糊塗しようとすると、よけい穴が拡がりますね。だから久生十蘭の場合も、穴を拡げちゃったんじゃないですか。それで慌てて、どんどん別の話になってしまったんじゃないかな(笑)。

中島 それと逆に、都筑道夫さんが、手を入れだすとメタメタに書き直さないと気がすまないので、書くかたはしから編集者に一枚ずつ持っていかしちゃうんだという話がありましたね。

筒井 結局、書いてから直すか、書くまでに時間をかけるかの違いでしょうね。

中島 筒井さんは下書きをなさるんですか。

筒井 必ずします。下書きして、それに手を入れ、更に清書する段階で手を加えます。あとでいくらおかしいと思おうとも、やはり書いているときが一番頭も冴えているし、作品世界に入りこんでいるんですね。

中島 それは......書いているときは、ある意味では、ミュージシャンが曲を演奏しているときと同じような状態なんじゃありませんか。山下洋輔さんがジャズについて、サッカーと同じで投げられたボールをいちばんいいけりかたで返すということを言っておられますよね。ああいう感覚はものを書くということに共通するんではないですか。

筒井 そうですね。「自乗」という字は自分を乗せると書くでしょう。のってる時は能力以上のものが書けるし、作品世界の隅から隅まで、そのとき頭の中にあります。だから、あとから文章のうわっ面だけ追って、ここはおかしいと思っても、やたら手を入れたら失敗しますね。

ダレ場、バレ場

中島 ここへ伺う途中で、筒井さんがどうもご自分のことを短編作家と信じていらっしゃるらしいという話が出まして(笑)、それについておききしたいなと思ってたんですけれど、ご自分を短編向きであるとお考えなんですか。

筒井 そうですね。しかし、長編も書けなくはないという自信みたいなものはあります。

中島 書いていらして、ご自分で面白いと思うのは短編ですか。

筒井 そうでもないです。ただ、短編と長編とは、はっきり区別して書いています。

中島 つまり書き方の意識が違うということですね。

筒井 書く速度などは全く変りませんが、やはり短編作法なり長編作法なりがあるでしょう。長編作法という言葉はあまりきかないけれど、僕が唯一知っているそれは、ダレ場ということなんです。真中を少し過ぎたあたりでわざとダレさせる。

中島 ははあ。

筒井 僕は長編を書下ろしている根気がないので、『俗物図鑑』なども週刊誌で連載したんです。あれにも真中過ぎたあたりにダレ場がある。するとそれを知らない人が、やはり筒井さんには長編は向いてませんね、最近ダレてます、なんて(笑)。

中島 それはしかし期待したとおりの成果があがっているということだから(笑)。

筒井 だから週刊誌に長編を連載するのは、やはりおかしいんですね。二十枚単位で読者にサービスしようとして毎回ヤマ場をつくると、どうしても長編の骨法からはずれるんじゃないかと思いますね。それで『俗物図鑑』の場合は、エピソードのつみ重ね、つまり"水滸伝"でいくしかないというふうに、最初から頭にありました。

中島 長編にも当然いろいろなスタイルが考えられるわけですから――。

筒井 ええ、今まであったスタイルにのっとってガッチリしたものを書きたいという気持もあるし、それをはずさなければいかんという気持もありますね。最近の芥川賞の作品なんか、これは短編ですけれども、まとまりすぎていて面白くないという批評がだいぶありましたでしょう。やはりどこかバレなければいけないんです、バレ場ですね(笑)。

中島 しかも――何というか天衣無縫にバレなければいけないわけでしょう。

筒井 計算してバレたんじゃ面白くない。

中島 それこそシラけちゃいますから、そこまで見えちゃったら。筒井さんの場合は、わりと意識して、この辺までは壊そうという――。

筒井 いざ壊しはじめたら、できるだけ壊した方がいい。だけど、内容によっては、ある程度以上翔ぶとかえって面白くなくなることがありますよね。

中島 しかし壊しはじめたら、もうあるところからは小説の方で勝手に回転していっちゃうということもありますでしょう。

筒井 ええ、いくらでも壊していい話だと思えば、いくらでも壊せる。

中島 そこでシリーズものだと、やはり限界があるわけですね。

筒井 それはあります。

実験的手法とパターン

中島 『富豪刑事』を読んでいていちばん感じたのは、筒井さんはこれを非常に視覚的に書いていらしたんじゃないか、つまり映画の場面のように構図が見えていらしたのではないか、ということなんです。たとえば、同時に進行しているいくつかの話が、連続的に場面転換していくところがあったでしょう。あれなんか実に映画的だなと思いました。手法としては、はっきり意識してなさっているわけですね。

筒井 それは、この程度であれば読者はわかってくれるであろうということでやっているんです。だから映画的な手法というより、やはり構成の上での実験みたいなものですね。あの程度のことは、もはや実験ともいえないでしょうけれどね。いろいろの新しいことをしたいと思っても、どの程度読者がわかってくれるか、果して効果があるのかどうか、自分では自信がないんですね。だから外国の実験的な作品をいろいろ読んで、ここまでやっているのか、じゃあ俺もここまでは大丈夫だなんて確かめてから書いているんです。そんな自信のないことではいかんのですけどね。ただ、僕の場合、面白さというのは実験的な手法と密接に結びついているんですよ。だから今まであったようなストーリーなり手法では面白くないんです。

中島 それはある意味では、鬼面人をおどろかすという面白さなわけで(笑)。

筒井 おどかすのが一番手っとり早くて効果的な面白がらせ方ですから。でも、誰もやったことのない新しい実験的なものを書いても、それだけでは面白いとは限りませんね。だから僕が自分に課している制限というのは、実験的であって、しかも最低限の面白さを保証するということなんです。

中島 面白さというものには何種類かありますけれど、まずひとつにはパターンで安心させるという面白さがありますね。ここではこうなるだろうと思っていると、必ずそうなるという――五木寛之さんの作品なんかがそうでしょう。ここでこう決めるぞ、決めるぞ、とドキドキしていると必ず、そこをはずさずにバシッと決めて下さる(笑)。読者はああやっぱり、というわけでこれは面白いというわけです。パターンドラマといったらいいか――。もう一つの方の面白さが、読者が次に何を見せられるか全くわからないという、さっきのおどかす方の面白さでしょう。シリーズものというのは一般に安心させる方だと思うんです。ところが筒井さんがやってらっしゃることは、ひたすらおどかす方なんですよね、だから、筒井さんがシリーズものを書くというのは、言うなれば『絶対矛盾の自己同一』みたいなことになるわけですよ(笑)。

筒井 僕は読者の、パターンで安心する秩序希求とか、いつもどおりのことが起って、待ってましたと喜ぶ面白さだってわかりますから、そういうものを書いてみたい気持もあります。しかし根本的には、自分自身がそういうものを何度も繰返し読まされたら面白くない。いくらキャプテン・フューチャー(E・ハミルトンの連作スペース・オペラの主人公)だって、十作二十作続いたら面白くない。

中島 さっきパターンドラマのことを言いましたけど、あれが今全盛でしょう。ところで、パターンドラマにしても、もうひとつの流行みたいなパロディ、これはパターンのひっくり返しですけれども、このどっちにしてもすでに前提としてのパターンがあるということだけは全然疑っていないというのが、このごろの一般的な特長ですね。これまでは、小説を書くというのはまずパターンをつくるという要素があったでしょう。ところが今の小説をいろいろ見てゆくと、展開のパターンもクライマックスのパターンも大体原型の見当がつくんですね。パターンがないみたいにみえる村上龍なんかでもあれは全部パターンですよね。こういうパターンが前提としてあるというのは、筒井さんがやってられることとは、大幅に違うでしょう。筒井さんは、すでにあるパターンを決して認められませんよね。『富豪刑事』にしても、あそこでフォーマットみたいにして出てくるのは、決してパターンではないでしょう。

筒井 それは登場人物の個性とかであって、ストーリー展開のパターンではないですね。

中島 ところが最近出てきた人は、皆さん、わりと自然にまずパターンの存在を受けいれて、ひっくり返すか、もじるか、意識的にそれをふんでゆくか、さあ、それからどうするということなんですね。

筒井 僕の場合は、SFに出会うまでに、そういったパターンの大衆小説をたくさん読みましたし、いわゆる古典といわれる文学にしても、結局今の大衆小説と同じで、因果律によるパターンをもっていて、そういうものもある程度読んできました。その後にSFがきたんですね。

中島 SFにははじめパターンというものがないようにみえましたね。たとえばハインラインとアシモフとベスターに共通項といったら、どれもSFだということしかないというような......。

筒井 われわれの読みはじめたSFは、ガーンズバック以後の非常に凝ったSFでしたね。社会学的なものがそろそろ入り、文学的に見てもひねったやつだった。SF以外のものでさんざん閉じられた形式の小説を読んできたので、今さらスペース・オペラに戻るのはしんどいという気持はありますね。

中島 最近のスペース・オペラ――一番端的には『スター・ウォーズ』ですけれども、SFファンが喜ぶのは、パターンのないSFをずっと読んできた人が、ここでひとつまたパターンに戻ってみようということなんですね。ところが、SFブームだということで、いきなりあれを読む普通の人は(笑)、当然あれを新しいパターンとしてストレートにうけいれるわけでしょう。

筒井 それは、そういうガッチリ構築されたものがすでにあるということを知らないからでしょうね。つまり、娯楽小説の場合は文学の伝統としては残らないから、そのパターンが本当は新しくなくても、新しいと思ってしまうことがあるでしょうね。このあいだ『未知との遭遇』を見て、いいなとは思いましたが、あれは要するに、今SFを読んでいる、もと天文少年だとかもと科学少年だとかが、まあ里帰りをして涙を流すというような感じではないかと思うんです。

夢と小説

中島 ところで私はこのごろ、言霊と言いますか、作家と作品の成立の過程の間にあるもの全体に非常に興味をもっているんですけれども、筒井さんの場合、お書きになるときにペンが勝手に走りだすとかいうような神憑り的なところは全くおありにならないわけですか。

筒井 それはないです。ただ、僕は夢をそのまま小説に書いてもかまわないという自信があるんです。ところが星新一さんに言わせると、夢は素晴しい、しかし小説にはならんだろうって。星さんも僕も、作品にのめり込んで神憑りになるというタイプではないけれど、そういうところで違いがありますね。

中島 筒井さんは分裂質ですか。躁鬱質ですか。

筒井 躁鬱です。

中島 星さんはどうでしょう。

筒井 躁鬱じゃないかな。現実の、日常の嫌なことを忘れるために小説を書くと言ってますから。これが今までの作家と発想の違うところですね。現実でさんざん嫌な目にあったから、この嫌な目にあったことを書いてやろうなんて(笑)。嫌な目にあえばあうほどいい作品ができるということは確かだと思う。しかし、それをそのまま小説にしたのでは従来の自然主義小説で、そういう嫌なことを虚構に濾過してくれて、超現実主義に昇華してくれるのが夢だと僕は思うんです。夢というのは、ごく自然にそういう作業をするんですね。こういう考え方をいつ頃からもっているかって考えてみたら、既に大学の卒論で僕はそれを書いているんです。

中島 夢についてですか。

筒井 そうなんです。絵に関してでしたが、夢に見たことをそのまま絵に描いて、それはシュールリアリズム思想として、十分真っ当なものであるということを論証したんです。あの卒論、六十八点でした(笑)。

中島 夢の中で一編の小説がおのずからなるということはございます?

筒井 ありますよ。小説の結構を整えていなくても、文章にしただけで小説になっちゃうことがあります。

中島 それは起承転結のあるものとして出てくるわけですか。

筒井 いや、それは、書いているうちにおのずから出てきますね。その場合、ストーリーとは関係ないところで起承転結が行われます。

わがままに書きたい

筒井 この頃、僕のところへ編集者から電話がかかってきたりすると、みんなためらいがちに言うんですよ、あのー、パロディと言っていいのかどうかわかりませんがって(笑)。パロディというのがひどく難しいもののように言われはじめたのは、あなたの評論にも一端の責任があるんじゃないですか(笑)。

中島 そんなことないですよ(笑)。私が言いだす前からです。例えば去年(一九七七年)、和田誠さんが『倫敦巴里』、小林信彦さんが『神野(かみの)推理氏の華麗な冒険』という、ステキな本を出してらっしゃるんですが、パロディのお手本みたいなお二人がそろってあとがきに、パロディという言葉が最近安易に使われすぎる、ぼくのやってるのはただのもじり、バーレスク化でそんな難しいものじゃないって書いておられるんです。

筒井 何もややこしくすることはないんで、小説というもの自体が現実のパロディだと僕は思っています。

中島 私が言いたかったのは、ただもう単純にこれ面白いよというだけのことなんです。面白いものは面白いんで、パロディという言葉が先にきたり、パロディだから高級でもじりはどうとかいう観念があるのがおかしいんですよ。

筒井 僕が面白さということで考えるのは、これは平岡篤頼さんが書いていらしたことなんですけれども、面白さにもいろいろな面白さがあるわけで、結局、文学論というのは面白さの種類の論議にほかならないわけですね。それで、読者が何を面白がるかは予測がつかないから、頼りになるのは作家が面白いと思って書くかどうかだけですね。

中島 読む側から言うと、私はこの頃、小説を読んでいて、勢いということがひどく気になるんです。文章のアヤとか構成とかはどんなに凝っても、あるところまでくると大抵わかってしまう。だから作品に何かしらそれを上(うわ)越す勢いがないと、もう苛々してくるんですね。

筒井 作家自身が面白いと思って書かなければ勢いは出てこないと思う。平井和正の勢いがもの凄いのは、自分で信じこんでいるからですよ。

中島 自分は主人公の『御筆先』であるという......。あの自信は凄いことですね。

筒井 生活するために原稿が売れさえすればよい、というくらい差し迫っている作家だっているだろうから一概には言えないけれど、自分で書いていて面白くない、でも面白がって読む人もいるんだからというような書き方は、やはり欺瞞ですね。

中島 森茉莉さんが、歴史に残る傑作を書こうといういきごみでなければ、自分はただの短編も書けない、といってらっしゃいますね。私はそういう思い込みのある人が好きなんです。

筒井 僕はたまたま幸いにして今までに書いたものが売れているので、それで食っていける立場にいますけど、今は別にいやなものを書かなくても生活できるから、自分で面白いものだけ書くのだと言っているわけではないんです。以前からそういう考え方だったんです。以前は書くものが溜っていて、それを次々と吐きだしたということだし、今はたまたま自分が夢中になれるものが減ってきたので、作品も少くなったというだけのことですね。だから、全盛期に俺は一カ月に三百枚書いた、だから今でも書けるんだという思い込みで書いている人がいると思うけれど、それはいけないと思います。

中島 そうなると惰性ですね。

筒井 惰性というんでもない、マスコミや読者に対する使命感をもっているんです。その意味では、僕は非常に無責任です。だけど折角わがままな作家は、わがままであり続けた方がいいと思う。わがままのできる立場にありながら、貧困時代の記憶とかマスコミへの責任感を背負って書きつづける人がいますでしょう。そういう人たちを悪くいうことはできませんが、僕自身は、年をとるにつれて社会的立場上の雑用もふえてきますし、せめて小説の方で、できるだけわがままに自分の面白いと思うものだけを書いていきたいですね。

 (了)

 (つつい・やすたか)
 (なかじま・あずさ)

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