書評・エッセイ

2020年9月号掲載

ラティンクスの声に惹かれ、啓かれて

カリ・ファハルド=アンスタイン『サブリナとコリーナ』(新潮クレスト・ブックス)

江南亜美子

対象書籍名:『サブリナとコリーナ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:カリ・ファハルド=アンスタイン/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590167-7

 情報が高速かつ大量に通信され、衛星が地球上のどのエリアもクリアに映像にとらえるこの時代でありながら、この著者がいなければ、彼ら/彼女らの声を聴くことはできなかったのではないかと感じさせる物語が、ここにはある。知りえなかった彼らの暮らしぶりや去来するよろこびと悲しみが、短編のひとつひとつに息づいている。読むうち、声を聴くうちに、ラティーノ/ラティーナと呼ばれるラテン系の人々に対して、自分たちがいかにてきとうなステレオタイプのイメージをあてはめてきたか、蒙が啓かれるようなフレッシュな驚きを、読者はきっと覚えるはずだ。宗教や言語、文化的な背景、そして肌の色や髪の毛もさまざまに異なるラティンクス(ラティーノ、ラティーナのジェンダーレスな呼称)の、ささやかな、しかしたしかな生の感触を、カリ・ファハルド=アンスタインという女性作家は、このデビュー短編集に十全に書き記した。
 十一の短編は、アメリカの南西部にあるコロラド州の州都デンバーと、ニューメキシコ州へまたがる「サグアリータ」という架空の町を舞台に展開される。土地柄、ラティンクスやアメリカ先住民の人口の割合も高いが、彼らのコミュニティは急速なジェントリフィケーション(地域の再開発による高級化、地代高騰化)のあおりを受け、立ち退きの危機に見舞われもする。女性たちは、総じて出産年齢が低く、若くして子持ちとなる。子の父親の姿はすでになく、彼女たちも両親の離婚によって父の顔を知らないことも多い。あるいは母親が家庭環境から逃げ出し、見捨てられたという悲しみにさいなまれることも。貧困や負債は、将来の展望に深刻な影を落とし、一日をどうしのぐか思案しつつ生活している。楽天的、しかしときどき涙は溢れる。
 そんな中で重要なのが、祖母の存在である。たとえば「治療法」では、アタマジラミがわき、断髪して泣く孫娘たちに、エストレヤおばあちゃんは民間療法を施すのだ。〈ニームと呼ばれるものから作った液で、根っこのような強い悪臭があった〉。祖母にはかつて「不潔の烙印」を押された苦い過去があり、以来清潔さを身上としている。シラミ退治以外にも頭痛をやわらげ口臭を消しもする一家に伝承された数々の治療法は近代医学と相いれないが、その価値観も孫たちは身体で引き受けていくのだ。あるいは別の作品でパーラは、家に押し入った強盗を撃ち殺す(「ガラパゴ」)。人生の大半を過ごした思い出深い家と自分の命を守るためだったが、孫娘の勧めに従って、その家を売却し高齢者施設に入ることも決断する。
 血縁のあるなしにかかわらず、女性同士の連帯は、この地で生き延びるよすがとなる。表題作で、コリーナはいとこで親友のサブリナを思い出している。「生きているお人形さんみたい」と人々にほめそやされるほどの美貌ながら、男と酒におぼれて身を持ち崩してしまったサブリナ。輝かしいはずの二十代にして自死で果てたサブリナのことを、世間は「悲劇の列の新顔」と哀れむが、堅実な生き方を選んだコリーナは、「あの子は価値のある人間になりたかったんだよ」とひとり抗弁し、擁護するのだ。
 一九五〇年代に時代設定された「姉妹」では、白人(アングロ)の男性に付きまとわれた姉妹のうちの姉ドティが、それを拒絶し凄絶な暴力を受けながらも、コミュニティで行方不明となっていた若いフィリピン系女性の発見のニュースに、関心を示す。非白人であるがため社会から見えない存在のように扱われる者同士の、シスターフッドの表れだ。ドティは失明を隠さず、妹の結婚式へ。それは理不尽な要求に身体をはって抵抗した、名誉の傷でもある。
 白人男性との不均衡と差別の歴史に、この地の女たちは何世代もかけて抗い、その都度、闘いの方法を会得しながら、今日この日を生き延びてきた。大文字の歴史には記述されないけれど、たしかにそこにいる市井の人々に、新しい価値観は刻まれていく。人生は甘くはないが、そう悪いものでもないと確信するように、ファハルド=アンスタインの視線は、不器用な暮らしを営む人々を優しく包みこんでいく。ラティンクスに、私たちのエンパシーが自然と発動させられる物語のディテールと筆はこびに、この作家の美質が表れている。

 (えなみ・あみこ 書評家)

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