書評

2020年9月号掲載

『雑貨の終わり』刊行記念特集

忘れられへんから

三品輝起『雑貨の終わり』

堀江敏幸

対象書籍名:『雑貨の終わり』
対象著者:三品輝起
対象書籍ISBN:978-4-10-353511-9

 すべてのものが「雑貨」と称され、消費されていく過程を、著者は「雑貨化」と呼ぶ。前著『すべての雑貨』には、すでに「人々が雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが、雑貨感覚」という、おおまかではあれ、そうと頷くほかない状況認識が示されていたのだが、本書ではさらに一歩深化した視点から、自身の立ち位置が説明されている。同時代の雑貨の流行廃りを消費者の側から眺めてきた私にも、共感するところが多かった。
 雑貨本という言い方があるとするなら、本書は従来の雑貨本の枠には入っていない。希少なコレクションの紹介も、経営に関するノウハウもなければ、特定の物に対する偏りのある愛の表明もない。むしろ偏愛という言葉に対する羞恥と忌避が全体をつらぬいていて、すべてを等価値に眺める「雑貨感覚」のなかに美醜を正しく判断しうる眼を保ちうるのか、保ちうるとしたらそれをどのように発揮すべきかについて、自問自答がくりかえされるのみである。「高貴な物から下賤な物まで、なにもかもをひとしく雑貨へと変えて飲みこんでしまう大河」のなかで、威圧的な等価の闇からひと筋の光を引き出し、選別する主体は、自分なのか世の流れなのか。
 もちろん、最初にこれはという選ぶ側の直感があり、まだだれも気づいていなかった価値を認めたのは自分だという矜恃はあるだろう。しかしよりどころであったその自恃の領域を、世の中がつぎつぎに侵食してくる。あのひとがあの雑誌のこのページで紹介しているのとまったくおなじ品が欲しいという反応からはじまって、しだいに同等品が大量に流布し、あとから振り返ると区別がつかなくなっている。
 厳しいのは、「選別」した先駆者への評価は、他の「選別」された「選別」者によってしか公式に認定されないということだろうか。著者のように、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまうための、高踏的な身ぶり」が、ほかならぬ「じぶん」にもあるという罪悪感に近い冷静な視点があっても、それで世界の「雑貨化」に、結果として加担しているという罪が減じることはない。なぜなら、減じられると考えることじたいに、自らを上においている構造がつきまとうからだ。
 どこまで行っても同様の光景が反復されるだけで、それを完全に突き崩しうるなにかが見つからない。にもかかわらず、物は物としてそこにあり、目で見られ、手で触れられ、生活の一部となって、私たちを支えている。しかも今度は、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまう」まぎれもない雑貨をそろえて、その「暮らし」全体を設計しようとする「高踏的な」戦略をそなえた企業があらわれる。
 先駆者の位置を確保し、時流におもねらず身を引いたと思い込んでいる古道具屋の夫婦や、選別者の位置を数の論理で保とうとしているイベント企画者、先駆者にも選別者にもなるつもりはなかったのに、気がつくと滑り落ちた集団に入れられていたパン屋や、オリジナルの音楽が批判対象に似ていると評されるうち、自分でもその気になってきたというバンドマンを描くあたりの筆は、苦く切ない。
 しかし、信じるべきものはある。世界の「雑貨化」にあらがうのは、ひとりひとりの身体に染みついた記憶であり、積み重ねてきた時間なのだ。売る側であれ消費する側であれ、それは関係ない。他人の物語を受け入れる耳を持ち、自身の物語を人に押しつけず、双方を包む言葉に近づくこと。若き日に陸軍航空部隊にいた祖父の語りに、より正確に言えば祖父の語りを伝える著者の語りに、それはあらわれている。五十も半ばを過ぎてから戦友たちを鎮めるために仏像を彫り始めた祖父は、「死んだら好きなんあげるわ」と孫に言う。仏像ではなく自画像を所望すると、こう返される。
「そやな、仏なんかええんよ。おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから」
 仏師が彫るものから素人の手慰みまで、仏像はいくらでもある。けれど、その「雑貨化」に抗するのは、「忘れられへんから」という想いなのだ。

 (ほりえ・としゆき 作家)

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