書評
2020年9月号掲載
私の好きな新潮文庫
世界の見え方が変容する体験
対象書籍名:『金閣寺』/『仮面の告白』/『美しい星』
対象著者:三島由紀夫
対象書籍ISBN:978-4-10-105008-9/978-4-10-105001-0/978-4-10-105013-3
(1)金閣寺 三島由紀夫
(2)仮面の告白 三島由紀夫
(3)美しい星 三島由紀夫
美に対する執着のようなものを言葉を通じて体感できる歳になったのは二十代以後だったような気がする。三島文学に始めて触れたのは小学生だったか中学生だったかの学校の授業で、そのときは言葉によって世界の見え方が変容するような体験を知覚したことがなかった。その後、時は流れて大学の頃、学生の自由な時間で濫読を繰り返す中で再び三島に出会う。作家として創作したり、文脈を整理したり、自分なりに表現と向き合うようになって以後、三島の言葉は常に僕にインスピレーションを与えてきた。
自分が三島の文章に評を書くなどと烏滸(おこ)がましいが、段落を一つ抜き出しても三島と分かるような美しさがあること、そしてそこに美醜を合わせ呑むような憑りつかれたような解像度の高い筆致が常に含まれていることが自分の世界認識を常に改めさせるのだと思っている。多様な美の形に果敢に挑む姿が垣間見えるところに没入性があるのだろう。私の好きな著作を三つ挙げるとすれば、『金閣寺』『仮面の告白』『美しい星』あたりだろうか。『潮騒』も好きだが、今回はこの三つにしよう。
『金閣寺』の、世界の認識を変えるほどの夢想と行為との関係性。夢想によって育まれたものが現実と交錯していく世界観に恋い焦がれながら読んだ。主人公の金閣寺に対する美的な倒錯がたまらない。社会的インパクトがあった事件がモチーフになっていると言われるものの、1987年生まれの自分にとっては『金閣寺』を読みながら得た体験が、僕の中では実際の事件と一体化しつつある。失われつつある幽玄の美、たくましさと艶かしさ、闇を地として聳え立ち輝く炎の交錯、高揚感の果てに生きるということを選んでいくということはどういう意味を持つのだろうか。ほの暗さの中で輝く柔らかな光に照らされた金糸や銀糸のような、舞と京刺繍のような美しさと人間の醜さを合わせて味わう瞬間が好きだ。じっとりとした夜に読み返すことが多い。
三島が二十四歳で『仮面の告白』を書いたことに愕然とする。確かに表現とは自分を曝け出すことなのかもしれないが、内的な反芻の長時間の蓄積によって描かれる性的描写の端正さに惹かれる。フェティシズムの描画、葛藤、コンプレックス、真っ直ぐにはいかない美的なねじ曲がり方と、その周囲に存在するプラトニックな美や男性美へのストレートな倒錯の混在が味わい深さを生んでいると思う。直線的な感情と渦巻く感情の二つが入り混じって、表と裏を行き来し、反芻され、文体のあちらこちらに現れては消えていく。このねじれが至るところから感じ取れる。主人公が対象と向かい合う時に始まるループを客観的に眺めるたびに、自分の中でも語り出そうとする何かを発見することができる。自ら創作するときに、「言葉が出やすくなる小説」という観点では、十九歳ごろによく読んでいた。何かと向かい合って、それが自分の中で対話可能なループを作るまで集中する、そんなものの見方を教えてくれる気もする。
『美しい星』のSFかと思わせる荒唐無稽なストーリーから、人類を外側から眺めてみる壮大なテーマを感じとる。終末観と不安の中で描かれるテーマに関する議論の様子を追いかける感覚は他の三島作品とは異なっているが、後半の人間存在について外側から眺める議論が心地よい。自分は大学時代に『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)とか『夏への扉』(ロバート・A・ハインライン)みたいなSFと同時にこの作品を読んだ記憶があるが、1950年代から1960年代の時代性の中に確かにこのような作品を揺籃する空気が存在したのだということを感じさせてくれる。虚無と希望の中で振動する自分を発見し、黙想する対話相手なのかもしれない。人類にして人類を外側から眺めているような感覚は自分自身がコンピュータと向き合っているときの感覚に近い。人間性とは何か、メディア装置を用いた芸術とは何か、そういった気分を喚起してくれる。
というわけで三冊ほど好きな三島作品について書かせていただいたが、駄文失礼。思えば何かを参照するわけでもなく、作品に想いを馳せるだけで、ついつい言葉が自然と湧き出てくる。偏屈で曲がりくねっていてそれでいて真っ直ぐな、年代物の癖の強いウイスキーのような、そういった特徴が三島作品にはあると思う。
(おちあい・よういち メディアアーティスト)